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over the rainbow

大学を卒業間もなく、僕は結婚した。
高校の頃から付き合っていた彼女が、海外に行くことになり、書類だけの結婚をした。
彼女は身内がいない。だから何かあった時の身元引受人として、夫婦になるのが一番手っ取り早いと思ったからだ。

彼女は小学2年の時に両親と離れ、児童養護施設に入った。
その後、中学3年の冬、彼女の伯父(母親の兄)に引き取られるまで、彼女は施設で過ごす。
彼女の伯父は、それまで長期間にわたり海外にいたのだという。
母親と伯父は異母兄妹で、年齢も随分と離れていたらしい。
引き取ったといっても伯父は同居はしなかった。
「今更こんなおじいさんと一緒に暮らすのもなんだろう」
と自身の持つアパートに彼女を住まわせた。
それでも頻繁に彼女を自宅に招き、一緒に食事をし、時には共に出掛けて、彼女のほしいものを買い与えた。
「伯父には子どもがいないようだった」と彼女は言っていた。
僕と彼女は高校2年の夏休みに入る少し前から付き合いだした。
多分、最初は僕は彼女のそんな特殊な境遇に惹かれていたのだと思う。
僕自身は長いこと擬似的父子家庭だったが、公務員の父と少し歳の離れた兄と姉とで穏やかな日々淡々とした日々を過ごしてきた。
母が奇妙な宗教にハマってしまったのは僕が2歳ぐらいの時だったという。時折家に現れる母親について、小学5年のある日、兄たちに聞いた。
もともと不安定な人だったという。実家に帰ったり、見知らぬ「母の友人」のところで何ヶ月も過ごしたり。僕が生まれる前後は落ち着いていたが、やがてまた落ち着かなくなり、母の友人が紹介したという宗教にのめり込んでいったのだという。
離婚こそしていなかったが、何ヶ月かに一度ふらりと現れる母親。後になってそれは父にお金を無心にきていただけで、用事が済むとさっさとどこかへ行ってしまう。僕の中ではもうとっくに父子家庭であった。
それでも幼い頃は近くに住んでいた父方の祖母が、そして、5歳年上の姉が母親的なポジションにいたが、自分にとっての親は父親だけだと思っていた。
たまに見かけるのが彼女の父親で、自分と同じ父子家庭かと思って話をするようになった。そして、一緒にいる人は伯父なのだと教えてくれた。
彼女は「できればここではないどこか遠くで生活していきたい」といつも言っていた。
「でも、伯父さんがいる間はここにいなくちゃいけないと思っているんだ」
「どうして?」
「伯父さんも自分もひとりなんだよね」
誰も家に訪ねてこないと彼女は言った。
「私はね、みんなには親戚の家に居候中だから家には招くことができない、って言ってるの。ひとり暮らししてるってわかったら、みんなが入り浸りそうなんだもん」
彼女がひとり暮らしをしているのを知っているのは自分だけだと聞いて、嬉しくなったのを覚えている。
でも、彼女の住む部屋は知っていても、実際に行ったのは伯父さんの家で、伯父さんに「この子のことをよろしく」と言われ、とても緊張した。

大学進学で離れ離れになった。
僕は地元を離れてこの町に、彼女は地元の大学に進学した。
やはり伯父にあまり負担をかけさせたくないという理由が一番だったが、彼女が学びたいと思っていた外語学部がある大学が新設されたのもあった。
「一期生ってカッコいいでしょ」そう言って彼女は笑った。
それっきりになってしまうかと思ったが、僕が帰郷する度に会うし、彼女も時々この町に来た。
「自分を知っている人がいない町で暮らすってどう?」
「うーん。学校では殆どの人がそういう感じだから、お互い『はじめまして』な雰囲気だけど」
町の規模としては地元よりも大きいし、昔からの町が学園都市として再開発されている最中の町なので、独特の空気感があると思う。
「町にだんだん馴染んでいく自分を感じるのは楽しいね」
「なるほどね」
彼女は興味津々といった様子だった。
こんな話をするのはなんだけど、僕と彼女の関係はキスで終わっている。そういうことは全く気にならない。
大学3年の時、僕にとって運命的な出会いがあった。
大袈裟かもしれないが、僕が個人的に誰かと長く付き合うということはあまりなく、それまでは彼女だけだった。そんな僕がその後10年以上も一緒に暮らすことになる相手に出会った。
その頃彼女は忙しくしていた。
彼女の伯父さんが亡くなったのだ。
お葬式には僕も行った。
その頃は彼女はアパートを引き払って、伯父さんと一緒に暮らしていた。
お葬式が終わった後、僕は彼女の住む家に招かれた。
「あのね。母親が来たの。お葬式」
ふたりだけなのに彼女は声をひそめて言った。
「でね。明後日また会うの。弁護士事務所で」
「え?」
「伯父さん、遺産について弁護士に頼んでいたみたいで。妹である母親に相続権があるでしょう?そのこととかで、今日のお葬式も弁護士が連絡したみたいなの」
なるほど。僕は無言のまま頷いた。
「一緒に会ってもらえないかしら?」
「え?」
「私ひとりだと自信がないの」
緊張もするだろうし、何を言っていいかわからない。と彼女は言った。
自分も母親とふたりっきりで会いたくない。僕が高校3年の時に、両親は正式に離婚した。そして、それ以来母には会っていない。
すでに母親に恨みはない。恨みもない代わりに、何も思うこともない。
彼女はどうわからないがそういう相手と対峙するのは辛い。
明後日は土曜日。明日も授業もないから、土日までいるつもりだった。
「僕でよければ」
そうは言ったものの弁護士事務所に行くにはやはりきちんとした格好がいいのではないか?と悩んでいたら「成人式の時のスーツ、置きっぱなしになっているぞ」と父が言った。

成人式に着たスーツは兄と姉からのプレゼントであつらえ物だった。リクルートスーツより断然着心地が良かった。待ち合わせ場所に現れた彼女もいつもより少し硬めの印象を受けるスーツ姿だった。
弁護士事務所に行くと、すでにひとりの若い男性が来ていた。
僕はとても驚いた。
最近親しくなった大学の友人にとても似ていたからだ。
彼女の伯父さんがやっていた仕事に関する相続の方で来ているのだと弁護士が説明してくれた。
「父が現在、仕事の関係で海外にいるので、父の名代として参りました」
その人は自分をそう説明した。
約束の時間ギリギリに彼女の母親が現れた。
もうひとり男の人が一緒だった。
夫だと説明したが、その人は彼女の父親ではなかった。
そもそも彼女が父親だと思っていた人も、彼女の父親でなかったことを彼女は児童養護施設に入ってから知った。
彼女は僕を婚約者だとみんなに説明した。
僕は黙って頭を下げたが、彼女の母親と夫が忌々しげに睨んでいたのを感じずにはいられなかった。
彼女を引き取る時点、いや、その少し前に伯父さんが彼女を養子にしていたことがわかった。
状況が特殊な件もあり、母親はその事実を知らないでいた。
正しくは通知をしていたが、母親がそれを見ていなかったのである。
だから通常ならば、子である彼女が遺産を相続するのは当たり前だが、母親の性格を鑑みて、兄である伯父は妹にも財産を残していた。
伯父さんと彼女が住んでいた家を含み、伯父さんが所有していた不動産のほとんどはトップを勤めていた財団の名義になっていて、その共同責任者である三日月玄円氏に管理を任せるとあった。その三日月玄円氏の息子である三日月蒼月氏が目の前にいる若い男性である。
できれば彼女に財団の中で仕事をしてほしいという希望も遺言書にはあった。そして、弁護士が封を切らない手紙を彼女と三日月氏に渡した。
彼女の母親は提示された金額に満足したのか(その金額を不満というならそれは強欲というものだ)声を荒げることも、最初に僕を睨んだような険しい表情をすることもなく、一番最初に弁護士事務所を出ていった。
三日月氏は彼女に「父が帰国後連絡すると思います。その際にはよろしくお願いします」と言った。財団としての諸々の手続きは三日月氏側が責任を持って行うと言って帰っていった。
彼女が弁護士の説明を受けている間、僕はすっかり冷めたお茶を飲んで待った。
「お待たせ」
彼女と一緒に弁護士事務所を後にする。
「ではまた後日」という弁護士に「よろしくお願いします」と頭を下げる彼女が急に大人になった感じがした。

彼女の家で、少し話をした。
伯父さんの養女になっているというのは聞いたかもしれないが、意識したことはなかったらしい。
「結局、最後まで伯父さんとしか呼ばなかった」
彼女は申し訳ないと涙をこぼした。
「お父さんと呼んでほしいなんて一度も言わなかった」
「伯父さんは多分伯父さんのままでよかったんだと思う。ただ、こうして財産を残したりするときに面倒のないようにするために養子にしたんじゃないかな?」
と僕は言った。
伯父さんが彼女に対して愛情がなかったわけでは決してないと思う。
父親に対する愛情をよくわからない彼女と同様に、子どものいない伯父さんが父親としてどう接していいのかわからなかったのかもしれない。
僕も母親の存在が今ひとつピンとこない。
「それにしても、キミとお母さん全然似てないね。むしろ、伯父さんとなら似てるとこあったよ」
「そう?」
「目も似ているし、耳の形がそっくりだ」
「変なところ見ているのね」と彼女は笑った。

彼女とはそのあとはしばらく会えなかった。
理由は就職活動の準備もあったり、細かく起きたトラブルだったり、お互いのタイミングが合わなかったり、いろいろあった。

ゼミの教授の紹介でアルバイトに行っていた広告代理店に早々と就職が決まって、単位も揃ってあとは卒論だけという頃だった。
卒業後の住処も、ルームシェアといえば聞こえがいいが、ひとり暮らしをしている友人が「一緒に住まないか?」といってくれ、全てが順調に進んでいた。
会うことはなくてもメールやら電話でやり取りをしていた彼女から「会って話をしたいの」と言われた。
少なからず僕は嫌な予感を感じていた。
彼女は伯父さんの望み通り財団の仕事をすることになった。
理事長はあのとき名前の上がった三日月玄円氏となり、彼女は理事のひとりとなった。
「別れましょう」
その言葉が待っているような気がした。
何も始まっていないのに終わってしまいそうな、そんな気持ちになった。
でもこのままの状態では結局僕らは何も変わらない、何も始まらないのかもしれない。
彼女とは僕の通う大学の近くにある喫茶店で会うことになった。
こっちに来る用事が他にもあるのだという。
店の前でしばらく佇んで、深呼吸をして扉を開けた。
店の奥に彼女がいた。
「待った?」
「ううん。さっき来たばかり」
丸いテーブルの上には水の入ったコップだけだった。
僕は緊張しているのがバレやしないかと、余計に緊張した。
彼女の向かいに座る。
彼女は少し痩せて、少し髪が伸びていた。
「声はいつも聞いてるけど、久しぶりだね」
少し早口になってしまった。
マスターが水を持って来る。
「頼んだ?」と訊くと「お勧めは?」と言われた。
「いつも話しているお気に入りのお店なんでしょ?」
「うん。一緒でいい?」
「うん」
彼女は笑って頷いた。
「ブレンド2つと、ガトーショコラあります?」
水を置くマスターに訊く。
「ありますよ」
「じゃあ、ガトーショコラも2つ」
喉がカラカラだった。
コップの中の水を一気に飲んだ。
「どうしたの?」と彼女が言った。
「いや。別に…」
言葉に詰まる僕を見て彼女がくすりと笑った。
「別れ話でもしに来たかと思った?」
ストレートに言われ、僕は頷くしかなかった。
彼女は僕の顔を覗き込んだ。
「そうね。ひょっとしたら別れることになるのかもしれない」
自分の心臓の音がいきなり大きくなった。
「しばらく日本から離れるつもり」
「え?」
「伯父さんが私を引き取るまで続けていた活動を引き継ごうと思って」
「環境保護だったよね、確か」
「そう」
「伯父さんが私のために活動を休止した7年を私が代わりにやろうと思っているの」
財団の運営だけではなく、実際現場に出ての活動も伯父さんはしていたと聞いた。
「ここからは私のわがままなんだけど」
「うん」
「結婚してくれないかな?」
「え?」
「ダメ?」
ダメではない。でも、できればそのセリフは僕が言いたかった。
マスターがコーヒーとガトーショコラを持ってきた。
「お砂糖、ミルクは?」
マスターは彼女に向かって訊いた。
「大丈夫です」
そして、ガトーショコラを見て「手作りなんですか?」と訊ねると、マスターは「皿も手作りです」と答えた。
彼女が驚いていると「本当はカップも作りたいけれども、案外と難しいんですよ。頭の中の理想を形にするのって」と言った。
「ごゆっくり」
マスターはそう言ってカウンターの奥に戻って行った。
しばしの間、彼女はテーブルの上を見ていたが、コーヒーをひと口飲んで「あ、おいし」と言った。
「私の都合で言うのもなんだけど、何かあった時一番にあなたに連絡が入るのを当然にするには結婚するしかないかな?と思ったの」
「何かって?」
いろいろ訊きたいことはあったが、口をついて出たのはそこだった。
「いいことも、悪いことも。行った先で何かあった時、私のことを知っている誰かに連絡するとなったらそれはあなたがいいなと思ったの。でも今のままじゃそうはいかないでしょ?」
おそらく彼女の母親だろう。
「私、夫婦とか家族の在り方ってよくわからないんだけど、自分の中で、家族っているのはお互いに護り、守られる存在で、愛情が必要だと思うの。でね、夫婦は共犯者みたいなものだと思っているの。お互いに信頼し合ってなければならない存在。夫婦でありながら家族になれるのが理想的なのかもしれないけど、今はとりあえず夫婦にならなければならないような気がするの」
彼女の考え方は衝撃的だった。
でも、少しわかるような気もした。
夫婦は契約してなるようなものだ。たとえ一緒にいても婚姻届一枚出していないだけで「なんの関係もない」とみなされる。彼女が父親だと思っていた人は、いろんな意味で赤の他人だった。彼女の定義でいくと、護り守られる関係でもない。家族ではありえない。
僕はゆっくりコーヒーを飲んだ。いつも感じる味が今日はちっともしなかった。ただの熱いお湯を飲んでいるような気になった。
「今すぐ答えてもらえなくていいんだけど」
彼女もカップを持ち上げた。
自分は今の瞬間まで結婚するということを考えたことはなかった。彼女とはもちろんだけど、やはり結婚のイメージがわかなかった。
彼女同様、結婚することと家族とは別もののような気はしていたけど、彼女のように言葉にはできない。
だから、彼女の思いも100%では伝わってこない。
ただ、彼女は僕のことをその他の人と区別してくれている。それだけはピンときた。
「いいよ」
「え?」
「結婚。多分、結婚した方が僕も安心していられると思うんだ」
言葉にすると、確かにそうだけど実感できるような気がした。
「安心?」
漠然とだけど、彼女は7年では帰って来ないような気がした。
「それに、僕に何かあった時も君に伝わるのが当然であってほしいし」
僕がそう言うと、しばし彼女は僕の顔をマジマジと見ていた。
「あなたって人は本当に…」
笑いたそうな泣き出しそうな顔をした。
「うん。ごめん。やっぱりきみが必要だ」
「ありがとう」
彼女は涙をこぼす前に、ハンカチで目を押さえた。
僕はホッとした。
「ガトーショコラ、美味しいよ」
「うん」
彼女はハンカチをテーブルの上に置いた。
僕らはもう一杯ずつコーヒーを頼んだ。

お互いの卒論を完成させた後、とりあえず僕の家族に彼女を紹介した。
結婚することにも、彼女の仕事の話にも父も兄も姉も、最初は少し驚いた。でも「おめでとう」と言ってくれたし「これからもよろしく」と笑ってくれた。
4月1日付で自分が正式に会社の社員となり、引っ越しも終えたところで婚姻届を出すことにした。
証人の欄には僕の父と会社の自分の所属するプロジェクトのリーダーに頼んだ。
プロジェクトリーダーも最初はびっくりしていたが、「いいんじゃない?そういうのも」と言いながら署名してくれた。
「のんちゃんが浮気しないようにきちんと監視してあげるから、と伝えといて」
その伝言を彼女に伝えたら爆笑してくれた。

6月に彼女を見送るために空港に行った。
前の夜、空港近くのホテルにふたりで泊まった。
結婚して一緒に過ごしたのはその時だけだった。
結婚式もウェディングドレスも着ることのない彼女に、僕は指輪を贈った。
「ベタだけど」チタンの何の飾りもないリング。
「手入れが要らないっていうからさ」

空港で誰かの携帯から「over the rainbow 」が流れていた。
僕らは音のする方を見ていた。
しばらく鳴っていたover the rainbow が止まるのと同時にアナウンスが流れた。
「行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい。気をつけて」
少し離れたところで彼女の仲間が待っている。
そちらに会釈をしてから彼女を送り出した。
彼女は一度だけこちらに向かって手を振った。そしてゲートの向こうに歩いて行った。

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の、Another 的なお話。
あぁ…そういえばそういう設定考えてたね、というメモと下書きを見つけたもので…