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父の遺影

54歳で亡くなった父の遺影は31歳の頃の写真だ。
父は写真を写すのが趣味だったから、もっぱらカメラを構えていて。本人が写っている写真がほとんどない。人当たりがいいのにどこかシャイでカメラに対して真正面に写っている写真というのが数枚。そのうち帽子を被っていない写真となったらその一枚しかなかった。
いや、本当はもう一枚あった。
私に祖母、父の母親と一緒に写っている写真だった。
そちらの方は父が40歳前後ではないか?と持っていた伯母が言っていたが、その写真から父を切り取るーー正しくはデジタル加工だからハサミなどで切り分ける必要はないのだがーーことがなんとなく嫌だった。
デジタル加工といっても今のような代物ではない
誰のかわからない喪服の上に父の首が乗るのだ。
当時自分は21歳で、その写真の父は自分が生まれる前の父であり、父は自分の存在を想像すらしていなかったであろう。そう思うと、その写真が仏間にずっといると思うと、なんとなく奇妙な気分になった。
3歳上の姉が生まれて間も無くの頃の写真だという。
親戚の結婚式の帰りにこっちから行った親戚らと温泉で一泊したとか、父にそっくりな叔父が話をしていた。
父は9人兄弟姉妹の8番目。なのに葬式は一番最初に挙げることになった。
会社で倒れてそれっきりだった。
心不全と診断書にはあった。
急なことで母は動転してしまい、ただただ泣くばかり。母に変わって姉が葬式の段取りなどを業者や親戚と進めなくてはならないので、自分には写真選びなどの雑務が回ってくる。
自分にとっても見覚えのある40歳ぐらいの父の写真を遺影にしないことには姉も賛成した。
「これは2人並べた状態で置いときたいよね」
姉が言った。
父と祖母はとても仲が良かった。9人兄弟姉妹の8番目。上に姉が4人と兄が3人。そして弟が1人。おそらくだけど、祖母は子どもたちの中で父を一番気にかけていたのではないだろうか?
長男一家と一緒に暮らしていた祖母は市内に住む子どもたちの家を(9人中7人が市内に住んでいた)時折訪れては数日泊まっていく。
そんな中、ウチにはほぼ毎月来ては1週間近く泊まっていく。
自分も姉も祖母が好きだった。
祖母の作るお汁粉が好きだった。お汁粉など母は決して作らない。
いつもはヒステリックな母も祖母がいる時は穏やかなふりをしている。そう、ふり。祖母が帰った後は、溜まっていたものを吐き出すかのように母は荒れる。でも「我慢していたからなぁ」と子ども心でも納得できる。
普段の母は理由の見当たらない不機嫌で自分たちを怒鳴ったりぶったりしていた。
祖母はそのことを知っていたのかもしれない。
そう思ったのは祖母が亡くなってからだった。
父の亡くなる4年前に祖母は老衰で亡くなった。
半年ほど入院した後亡くなった。
その半年の間、父は毎日祖母を見舞っていた。
そんな父と祖母がふたりだけで写っている写真は一枚だけだった。
祖母と父と父のすぐ上の姉夫婦で出掛けた時だという。
そういう「お出掛け」があったことは自分も姉も知らなかった。そしてその写真は家にはなく伯母が持ってきたのだった。
「おばあさんは持ってたと思うんだけどね」
と言っていたが、祖母と一緒に暮らしていた伯父も「初めて見た」と言っていた。
伯母は「自分たちと写っているのもあるから、この2人で写っているのはあげるよ」と言った。
フィルムカメラの時代だ。
葬式も全て終わり、遺影も家の仏壇の上にある。
モノクロに大きく引き伸ばされた写真は輪郭もボケている。
自分は伯母からもらった写真をデジタルデータにして少しだけ大きくプリントし直した。
蓮池の上にかかる橋の上だという写真の中の父は穏やかに笑っている。
自分のよく知る父の顔だった。
その隣で少し眩しそうな祖母の顔も、家に訪ねて来た時によく見た顔だった。
明るい木製の写真立ての中のふたりは仏壇の隣の飾り棚に置いた。自分の目線とほぼ同じあたりだ。
仏壇に手を合わせるよりも、その写真を見る方が遥かに多かった。
姉が嫁ぐ際、写真のデータをコピーして渡した。
「自分の知っている顔がいいよね」
姉はそう言っていた。
父が死んで30年になる。父の遺影の隣には髪がすっかり白くなった母の遺影がある。年齢だけ見れば祖母と孫と言ってもいいほど違うふたりの遺影だが、自分はあまり見ることはない。
代わりに見るのは、30年前からあるふたりの写真。あの写真はずっと同じ場所にある。
もうこの写真の父の歳を追い越してしまった。
「歳を取ったら父さんに似てきたよ」
と姉は言う。
写真の父を真似た笑みを鏡で見てもあんまり似ていないような気がした。