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1 今晩もその人は、きっかり夜の21時に来店した。 私はいつものようににこやかに「いらっしゃいませ」と声をかけたが、その人はこちらに一瞥をくれると、無言のまま幹線道路に面した窓際の席に向かった。 入店を予期して用意していたお冷とおしぼりを持ってそのまま客席に向かうと、席にちょこんと腰をかけ窓の外を眺めている。 「ご注文お決まりの頃、またお伺いいたします」 私は〝念のため〟そう声をかけた。 「赤ワイン。……チョリソー」 少しだけ高い特徴のある声がそう告げる。
一話はこちら 2 家に帰ってからも私は状況を呑み込めないでいた。 あのあと、マダムは武田さんに手を振って帰ろうとした。私は自分がやましいことをしているわけでもないのに、とっさにキッチンに戻り身を隠してしまった。 その後、バックヤードですでに私服に着替えた武田さんと顔をあわせたが、彼は何事もなかったかのように話しかけてきた。 「柏木さん、お疲れ様。今日、ちょっと大変だったね。大丈夫?」 先輩スタッフらしいそんな声掛けだったが、私は内心それどころではなかった。