ほのほのみ

建保の騒乱 その4

数日後、胤長の屋地の跡は、朝盛が五條の局を通じて義盛の嘆願書を実朝に届けた事で義盛に下された。しかし、その直後、北条義時の家人、金窪行親、安東忠家等の手勢により横領されてしまった。屋地を下された事に喜悦し、久野谷弥次郎以下数名の家人しか置いておかなかった義盛の不手際だった。

ここにいたっては、例え幕府に訴えたとしても、政所を握る執権義時の命である、という北条方の言い訳が通ってしまう。義盛は鬱屈を含むといえども、勝ち負けを論じたならば結果は明白なので、敢えてこの事にはそれ以上ふれずにいた。

しかし、これは戦略的にも大きな打撃を和田方に与えた。義時の館は、御所の西に小町の館。御所の南の、六浦路から荏柄社に向かう道が岐れるあたりにある大町の館。そして今回手に入れた荏柄社前の御所東側の地だった。つまり、義時の三か所の館は、御所を取り囲むように存在し、和田方が義時を攻撃すれば、必然的に御所を攻撃せざるを得なくなってしまったのだ。

さらに、戦力の上からも、義時は自らの所領地から多くの兵を鎌倉に連れて来る事が出来るようになった。義時は、父時政から譲られた、名越の山荘、材木座の浜の御所も維持していて、そうした場所にも息子たちをはじめとした、郎党、庶子、家人たちを置いていた。朝盛は後手に回ってばかりの和田方の対応を憂いていた。
 
和田氏、北条氏をめぐる情勢が緊迫の度をますます深めていたそんな折り、御所では四月十五夜の朗月に際して、和歌の会が開かれようとしていた。中島を設けた池に面した寝殿南面の庭に畳を敷き、女房が数人ずつ左右に分かれて座っている。御台所が京より伴った京女たちが、色とりどりの五つ衣に着飾り、内輪の宴とはいっても華やかな雰囲気をつくり出していた。和歌の会の後には、彼女らは女房踊りを将軍家に見せる手筈になっていた。

南面の蔀戸は開け放たれ、池を見渡せるあたりに二脚の椅子を出し、それに将軍家と御台所が並んで坐っていた。朗月を題に左右に並んだ女房たちに歌を作らせ、二人がそれを判じていこうという趣向だった。といっても、皆、勝負にこだわってはおらず、あくまで明るい笑いが場を支配していた。月は池の面を煌々と照らし、将軍家がその枝振りを愛でて、永福寺からわざわざ移し植えさせた松の影が、水面にくっきりと浮かんでいた。

幾度目かの歌合わせが終わった。勝った者には、将軍家、御台所、それぞれから美しい布が下賜された。取り次ぎの者が、和田朝盛が将軍家への面謁を望んで控えている旨、実朝に告げた。実朝は機嫌よく朝盛をその場に呼んだ。

「朝盛か。ちょうどよい所に来た。今、朗月を題にして歌合わせをしていたところだ。そなたも参加せぬか。」
「わかりました。」

朝盛のために、庭に敷かれた畳に新たに座が設けられた。文机を前に朝盛はしばらく黙考していたが、筆を取ると一気に三十一文字を書き綴った。方人役の女房が、筺にその和歌を綴った草子紙を収め、実朝に献上する。実朝は一読し、よく響く声で朝盛の歌を詠じた。良い歌だった。枕草子にある、月下に牛車で川を渡る場面を本歌にした歌だった。月の光を浴びて、きらきらと飛び散る水が目に浮かぶような歌だった。

「良い歌だ。」
「おほめにいただき、ありがとうございます。」
「確かに良い歌だ。」

実朝は筆を取り、何事かを草子紙に書き記した。

「朝盛。これをつかわそう。」

朝盛は将軍家のそばまで伺候すると、それを受け取った。そこには、数ヶ所の地頭職を与える旨、認めてあった。

「日頃からのその方の忠誠に対しての褒美だ。遠慮無く受け取るが良い。正式な下文は後日つかわす。」

朝盛は泣きたくなった。将軍家は全く自分を信頼しきっておられる。それに対して、今の自分は何を持って答えようとしているのだろうか。

「朝盛。合戦にしてはいけない。合戦は何も産み出さぬ。義盛の爺には、私からも使いを出そう。短気を起こさぬよう、その方からもよく爺に伝えてくれ。」

この方は何もかも知っておられるのだ。朝盛はあらためて理解した。

「意地を貫いたところで何になる。爺はもう十分に生きた。その最後の時に意地を張り、一族をその意地のために合戦に引きずり込むことは許さる事ではない。」

朝盛は黙って聞いていた。

「胤長の息女が、父の遠流を悲しむのあまり病気になってしまったそうだな。」
「はい。荒鵑という六歳になる童女でした。彼女は、父様はどこに、と言いつつ先日亡くなってしまいました。最後の時に、父様がお帰りになりましたよ、と側に仕える女房が申すと、にっこりと笑って逝ってしまったそうです。」
「そうか。」

朝盛は、そう言いつつ、実に悲しそうな顔をした将軍家を見つめた。

「私の所為で、六歳の童女を死なせてしまったか。」
「いや、将軍家の所為などでは決してありません。」
「私の所為だ。胤長も悲しんでいるだろう。胤長の事は、私に任せてほしい。必ず鎌倉に戻る事ができるようにしよう。だからしばらく辛抱するように爺に伝えてくれ。」

朝盛は返事が出来なかった。こうした将軍家の心情を、一族の者たちは、誰一人として理解は出来ないだろうと思った。

「朝盛殿。将軍家のお心を、必ず皆のものに伝えてください。」

朝盛は、驚いたように声の主の方に目を向けた。御台所だった。今から十年ほど前、朝盛が十五の時、彼は将軍家の御台所となるべき坊門の姫君を京まで迎えに行った。元服して間もない、容姿端麗の若武者ばかり二十人が随兵として選ばれたのだった。坊門の姫君は当時十二歳。旅の中でのこと、朝盛は姫君の姿を間近で見る機会を何度も持った。正直、このように美しいものの存在を、朝盛はそれまで知らなかった。女を知りはじめたばかりの朝盛の脳裏に、坊門の姫君の姿は、理想の女性として深く刻みこまれてしまっていた。

朝盛にとっては直接御台所に声をかけられたのは初めてのことだった。朝盛はしばらく震えが止まらなかった。そんな若武者を朗月は煌々と南庭に照らし出していた。

朝盛は御所を退出すると、その足で日頃から師事していた浄蓮坊の草庵に向かった。そして、髪を除いて出家し、実阿弥陀仏と称することにした。二人の郎党が朝盛に従って出家を遂げた。朝盛は、義盛宛に書状を認めた。その書状を小舎童に託し、三人は黒衣をまとった僧形姿で、その日のうちに京を目指して鎌倉を離れた。

朝盛が出家して京に向かったという知らせは小舎童によって翌日には義盛に知らされた。同時に、朝盛からの書状も届けられた。書状には、将軍家をお連れすることはどうしても出来なかったこと。合戦はするべきではないが、一族の義時憎しの感情は止めようがないこと。自分は将軍家に対して弓引くことは決して出来ないし、将軍家のお側にいて、父や御祖父様と戦うわけにもいかないこと。などが切々と書き述べられていた。

義盛は激怒した。すでに出家して法体となっていてもかまわぬ、とにかく連れ戻せ、と四郎義直に命じた。義直は駿河の国の手越駅で朝盛等の一向に追いつき、二日後には義盛の前に朝盛を連れ戻していた。義盛は、合戦に際しては、一軍の将として立派に闘う立場にあることを、懇々と朝盛に説いた。もはやこれまでだった。朝盛に残された道は、一族とともに闘う事だけだった。

朝盛は黒衣をまとったまま、御所にも参上した。将軍家は、朝盛の出家をひどく惜しんでいた。そして、そうさせてしまった自分を悔やんでもいた。だから、朝盛が連れ戻されたと聞き、一言わびようと呼び出したのだった。実朝は、剃髪し、僧形になった朝盛の姿を見て、涙を流した。朝盛も泣いた。だが、二人の間に言葉は交わされなかった。
 

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