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感想:ゲゲゲの謎:バディ映画の傑作。ただし作中の社会批判は凡庸以下(ネタバレあり)

バディ映画として傑出した良作

本作は鬼太郎の父親と水木の友情を中心に描いた作品だと思いました。
特に主人公の水木が、鬼太郎の父親との交流を通して変化していく様子が「尊い」と思わされます。

戦争の悲惨な経験から他人を大事に思えなくなった水木が、鬼太郎の父親の自己犠牲を厭わず他人の為に行動する姿に感化されてゆき、最後のシーンで自分以外にも大事に思える「運命の人」を見つけて胸に抱きしめる姿は感動的でありました。

本映画を「約束」という視点から評論している記事があり、鬼太郎の父親と水木の関係性についての素晴らしい分析だと思いました。

ちなみに、本作の2次創作として主人公たちのBL的な作品を描くことに嫌悪感を表明している人を見かけましたが、映画からこの2人の関係性の尊さを感じた人が、ああいう作品を描くのは、映画のテーマを適切に理解できている証拠とも言えます。

まぁ、自分の好きなキャラをホモにされてムカつくという人も当然いるでしょうが、自分の地雷は、他人の栄養。他人の地雷は、自分の栄養であります。
お互いに見て見ぬ振りをする寛容さが大事だと思う次第であります。

鬼太郎ファンも大満足

鬼太郎作品は原作に幾つもの異なる設定の「世界線」があり、アニメ版も期によって根本的な設定が違います。
ゲゲゲの謎は一番最近のアニメである第6期の世界線の話です。

そんなアニメ第6期の鬼太郎は、人を助ける理由として、自分も昔に人間に助けられたからと言います。
その鬼太郎の言う人間こそが、自分を育ててくれた水木であるのでしょう。

ですが、原作の水木はそこまで鬼太郎に愛情を注いでいたような描写はありません。
墓場から生まれた鬼太郎を墓石にぶつけて片目を失明させるというドン引きするような場面さえあります。
とても鬼太郎が恩を感じられる人物には見えません。

しかし、本作では、鬼太郎は生まれた時から片目で、水木は鬼太郎を墓石にぶつけるのを踏みとどまり、しっかりと抱きしめます。
この水木ならば、愛情をこめて鬼太郎を育てたのだと納得できます。

原作の水木をこのように改変して描いた映画スタッフは、とても良い仕事をしたと思います。
アニメ第6期の公式設定の水木が、このような魅力的な人物になったことを嬉しく思います。

また、原作では具体的な説明がなかった鬼太郎の父親の「溶ける病」の謎、鬼太郎のちゃんちゃんこの由来を明らかにしたのも良かったです。

本作はゲゲゲの鬼太郎のファンも満足できる仕掛けが満載です。

紗代の悲劇に胸が痛む

本作で一番不憫だったのは紗代です。
本作を見た後の視聴者の心に残るモヤモヤの大半は彼女の扱いの悲惨さによるものでしょう。

水木は彼女のことが好きなわけではないので、最後まで好意の目で彼女を見ません。
水木が最後に紗代を助けようとしたのは、彼女の悲惨な境遇に対する同情心と義憤からであり、愛情からくる行為ではありませんでした。

紗代も正体を明かした時に水木が自分を見る恐れを抱いた顔を見て、水木が自分を好きなわけではないことを明確に理解してしまったので、最後まで孤独なままでした

ですが彼女も水木が好きだったわけではなく、今の自分を全てなかったことにしてくれるならば誰でも良かったわけです。
だから紗代は、水木と一緒にいても「今の自分がなかったことにならない」ことに絶望し、自分の秘密を知った水木まで殺そうとしたのです。
自分の秘密を知る水木は、消してしまいたい今の一部になってしまったわけです。
もし紗代が本当に水木を愛していたら、自分の秘密を知った水木を殺そうとは思わず、それでも一緒に生きたいと望んだことでしょう。

紗代の最大の悲劇は、彼女が誰も愛さなかったことにあると思いました。
彼女が水木を愛して殺そうとしなければ、背後から刺される隙を作ることもなく、最後まで生き残って水木と一緒に東京へ行くこともできたでしょう。

彼女は本当に不憫で胸が痛みます。

社会批判の作品としては凡庸以下。賛同するのは「政治的な人」ばかり

本作を見ていて私がしらけてしまったのは、社会批判の部分でした。
何というか、常に今の世の中を最悪だと思いたがる老人の繰り言感が半端なかったです。
私は、この手の世の中を悪く言いたがる主張が嫌いなので以下の文章はかなり感情的なものになります。
「日本下げ」だからとか、そういう愛国的な理由で怒っているのではなく、先人達の努力を否定して賢しら気に振る舞う態度が不遜で不愉快だからです。

人類の歴史をさかのぼると、太古の昔から人々は「自分が生きている今こそが、最悪の時代だ」と言いたがるものです。
例えば日本の平安時代には盛んに「末法の世だ」とか言われたり、ヨーロッパではいつでも「乱れた世界に対して審判の時は近い」と言う人がいます。

現在の日本は、戦前、戦後直後の日本に比べれば、犯罪率が激減し、飢え死にするような絶対貧困層がほとんどいなくなり、医療が発達して命が救われる人が増え、教育や福祉が貧しい人々にまで行き渡るようになりました。
水木が時弥に言った「おためごかし」は、実はかなり実現できているのです

それなのに何も変わらなかったと言いたがるのは、精神的に老いて頑迷になり、世の中を公平に見ることのできなくなった偏屈者の恨み言でしかありません。

現代の日本に精神的な貧しさや解決すべき問題が多々あるのは確かですが、何の改善もなかったかのように言うのは、戦後の日本、そして昭和、平成にわたって懸命に努力してきた全ての人々を愚弄する発言です。

映画に何か高尚なテーマを持たせる為に、この取ってつけたような浅薄な社会批判を足したのでしょうが、完全に蛇足であったと思いました。
ですが、幸いなことに、多くの鑑賞者はこの主張をスルーして、鬼太郎の父親と水木の関係性に萌えて、健全なことに2人がイチャイチャする2次創作に励んでいます。

ネットなどで、この映画の社会批判にやたらと賛同しているのは、普段から「どうして正しい○○党が選挙で負けるんだ。彼らに投票しない日本人は精神的に堕落している。今の日本は最悪だ」などと愚痴を言っている政治的な人ばかりです。

戦争描写は浅いが、それで十分。過剰な意味を見出す必要は無し

本作には、戦争の悲惨さと理不尽さを描いた傑作、水木しげる氏の「総員玉砕せよ!」を参照したと思われるシーンが随所に出てきます。

ですが、ゲゲゲの謎において戦争シーンは断片的にしかなく、その時代背景や経緯も説明されないので、戦争批判の作品としては不十分なものでしかありません。
ですが、それで何の問題もないと私は思っています。

何故なら、あれらの戦争シーンは、戦争を批判する為に描かれたのではなく、水木のトラウマが何かを示し、その人物像を掘り下げる為にあるからです。

大義の為に弱者に犠牲を強いておきながら、大義を唱えた強者は安全な場所で贅沢をしている。その弱者の側にいた水木は強者の側になりたいと強く望んでいる。
そういう映画序盤の水木の心情を視聴者に伝えるのが、あの戦争シーンの目的です。
それが映画中盤で強者の側の醜さに辟易して、鬼太郎の父親のような強者なのに他人の為に尽くす優しい生き方に感銘を受けて、弱者であっても強者の理不尽と戦う決意をするようになるわけです。

水木の行動の動機、そしてその動機が変化していく過程を描く為に必要だったのが、あの戦争シーンです。
戦争批判の為に必要だったわけではありません。

たまたま題材として使いやすい「戦争」があったから使ったというだけで、別のものに置き換え可能で、「戦争批判」は本作のメインテーマにはなりえないのです。

勝手に「戦争批判」とか「英霊賛美」などの意味を見出して持ち上げている方が、過剰反応でしかありません

ちなみに、水木しげる氏の「総員玉砕せよ!」は、真に戦争批判をテーマにした傑作なので、お勧めです。
太平洋戦争の意義について肯定派の意見を全て否定するつもりはありませんが、この本を読めば、単純な太平洋戦争礼賛は無理だと思えることでしょう。

ポリコレ的に正しいキャンセルカルチャーの作品としての評価には異論あり

本作について、鬼太郎の父親のハンセン病という正しくない設定をなかったことにしたことが素晴らしいと評している人もいましたが、私はその意見には賛同できないと思いました。

詳しくは以下の記事で述べていますが、既に原作の時点でハンセン病という設定は修正されており、本作をキャンセルカルチャーしたから素晴らしいと思うのは誤読であり、逆に本作の価値を過小評価していると感じるからです