資本主義、株式報酬、レイオフ

アメリカでの大手テックカンパニーのレイオフのニュースが流れている今、たまたま、岩井克人先生の「二十一世紀の資本主義論」を読んでいる。

日本国内では、「アメリカ企業は人員整理が大胆だ」という反応もあるし、もちろん、制度面や人材市場面などを見たときに、そういう側面もあるとは思うが、
この本での議論を踏まえると、また違った側面もあるように思う。
そして、だとするならば、対岸の出来事とも言えない、と。

"実体"と"幻影"

視点を向けるのは、
「株式の商品化」によって、
様々な期待によって作られた"幻影"が、
事業や組織の"実体"を振り回すという状況のことである。

岩井先生は、株式資本主義の発展によって、株式と企業活動実体との関係が揺らいでいることを指摘している。

ある企業の株式をもつことは、その資本設備からの将来の利潤を受け取る権利をもつこと…(中略)…いわば実体的な経済資源を獲得するための媒介手段にすぎない。だが、ひとたびこれらの媒介手段が商品化され、ひとびとの投機の対象になると、それらは本来媒介しているはずの資本設備の収益性や商品の生産価格とは独立した振る舞いをしはじめ、さらには逆に、設備投資や商品生産といった経済の実体にまで影響を及ぼしてしまうことになる。

『ケインズとシュムペーター』(「二十一世紀の資本主義論」)

そして、その株価の決定は、企業活動実体とは離れた論理で敏感に挙動する、というケインズの主張を示して、

([補]株式投資においては)平均的な投機家が企業の将来の利潤をどう予想するのかを予想するのではなく、平均的な投機家がそれをどう予想するかをどう予想するかを予想しなければならず、さらにまた・・・・・・。そして、予想のこのような無限級数的な累積過程は、株式市場において日々決定される株価を、本来それが表示しているはずの企業利潤とはまったく無関係な水準に乱高下させる可能性を生み出してしまう

同上

それゆえ、株価によって表現される企業の姿は、企業の活動や利潤の"実体"から乖離した、"幻影"としてフワフワ常に形を変える存在になる可能性がある(「可能性がある」というのは控えめ過ぎる表現かもしれない)。


株式報酬:"幻影"からの「前借り」

従業員に対して株式に連動する又は株式そのもの(&それに類するもの)を報酬を与えることは一般的になりつつある。

上記の議論を引き継ぐのであれば、これは、株式市場で形成された"幻影"から「前借り」することという側面を孕んでいることになり、本来の企業活動や利潤の実体と乖離して乱高下する可能性を持つ。

もっとも、
現在の利潤を発射台に将来における期待利潤までを現在価値に織り込むというValuationの論理は、これ以上に説明可能な論理を私たち人類は開発しきれておらず、まさに健全な企業発展のための有効な指標であるし、
IR活動を通じて適切な株価を形成しようとすることも含めて企業経営の一環なので、
その意義は改めて強調して意識される必要があると思う。

それと同時に、実務家であれば、
「割引率」のわずかゼロコンマ数%の変化によって、
スプレッドシートのセルに表示される数字(この数字を私たちは「企業価値」と呼んでいる)が大きく変動することを知っている。

さらに、
上場していたり、そこに向けた経路に乗っていたりする企業の場合、
企業経営の実体とは乖離した形で株価が乱高下することを経験することになる。


経営:"幻影"を飼いならす

優れた経営者は「ホラ吹き」であると言われることがある。
「ホラ」を吹いた段階で"幻影"であったものでも、
その真偽の判定が下るまでに"実体"の形成が追い付けば、
その「ホラ」は「予言」や「宣言」であったことになる。
その時、"幻影"は、"ビジョン"と呼び名を変える。

"幻影"から生まれるエネルギーやオーラが、ヒトやカネやビジネスパートナーといった経営資源の動員を加速し、より大きな"実体"を生む出す。
これこそが、経営という営みだと思う。


ただ、"幻影”を"実体"だと過信・誤信して、事業としての経済性や原理原則を逸脱して暴走してしまっては、その走路の先には、大きく膨れ上がって制御不能になった"幻影"という魔物が大きな口を開けて待っていることになる。


個別企業の意思決定については、もっと個別的な要因があるけれど、
私たちは、そういう時代のなかで、経営に向き合っている。
そのことを改めて思いました。

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