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なぜ僕が「孤独感」問題に取り組むのか?

『孤独感』は20~30代の社会課題

今まで、「孤独」は介護や死と合わせて、高齢者の課題として語られることが多かったのですが、実は若年層にとっても同じく課題であることが認識され始めています。

ぼくは、この課題に取り組むために、株式会社ブギウギを設立しました。

なぜぼくがやるのか

これ以上孤独が増えたら、人の自尊心や自己肯定感はどんどん失われて、そのうち日本社会はお互いでお互いを傷つけあうようなディストピアになってしまう、という危機感があるからです。

褒められ方がわからなかった幼少期

ぼくの幼少期は、いわば「どうしたら褒めてもらえるのか」を悩みつづけた幼少期でした。実家は全くもって普通の家庭でしたが、少し評価が厳しい側面がありました。夏休みの自由研究も平凡な内容は許されず、毎年父親から与えられた意味すら理解できないテーマ(小6の研究テーマは『フレミングの左手の法則~磁力と電流がリニア機構に与える影響~』)を、友達と遊ぶ時間も削っては、泣きながら仕上げてたりしていました。

問題は、言う通りにやっても褒めてもらえないことにありました。それどころか、学校で学級委員長をやるというような”一般的に良いこと”をしても、「目立つことをするな」と怒られたり、先生や友達のお母さんに褒められても「お世辞を真に受けるな」と言われていました。そうして「何をしたら褒めてもらえるのか、何をしたら喜んでもいいのか」がわからなくなったぼくは、ずっと親の顔色を伺いながら過ごすようになりました。

人の相談に乗ることで存在意義を見つけた中学時代

その後中学に上がり、部活や恋愛など個人的な悩みを友達同士で相談する年齢になったころ、あることに気が付きました。人の相談に乗るたび、「いつも良いこと言ってくれる」と、妙に友達から感謝されるようになったのです。「どうやら自分は、表情や言葉遣いから”人の気持ち”を読みとるのが他人より得意らしい」と気づいたのはもう少し後でしたが、とにかく友達に認めてもらえることが嬉しかったぼくは、進んで人の相談に乗るようになりました。

相談回数が増える中で、言葉の選び方も上手くなっていき、さらに感謝されたり秘密を共有してもらえることが多くなったぼくは、どんどん「信頼されている」「認められている」という自己肯定感を高めていきました親の顔色を伺って過ごした幼少期が、意外な形で花開いた瞬間でした。

問題意識:みんなが存在意義を自覚できるようには?

高校に入っても引き続き人の相談を聞いていると、ほどなくして、ほとんどの悩みは「他人に認められたい」「自分が価値のある人間だと証明したい」という気持ちが大元にあることに気が付きます。そして、逆に自分にあまり悩みがなかったのは、「もう認めてくれる人がいることはわかった」と思えるような機会に偶然恵まれたからだ、と考えるようになっていきました。

当時もう既に『人の悩みを解決すること』が、自分の存在意義の大きな柱となっていた自分の中で、この気づきは次第に「みんなが自分の存在価値を自覚できるようにするにはどうすればいいのか」という問題意識に変容していきました。そして、高校や大学で、部活やサークルなど、色々な組織の中で役職についたりしているうちに、その問題意識はどんどん明確になり、就職する頃には「日本全体の自尊心を取り戻すために、日本経済を元気にしたい」という理由で商社を選ぶほどまで、気持ちが大きくなっていました。

これは"社会問題"であるという気づき

そうして実際に社会人になって驚いたのが、世の中にはセクハラやパワハラ、不倫など人間関係で苦しんでいる人が、想像していたよりもずっと多いということです。

営業部のエースが後輩を鬱や退職に追い込んだり、役員が若手を口車に乗せて不倫してこじれたり、人事部員が内定者を酔わせて関係を迫ったり、例はいくらでもありました。そして、詳しく話を聞いてみると、被害者は共通して心のどこかに「自尊心の穴」のようなものを持っているように見えました。

先輩に言われたことを流せずに受け止めてしまったり、心にもない甘言を本気にしてしまったり、嫌なことでも我慢して受け入れてしまったり。そういった人は、家庭や恋愛など事情は様々なれど、いままで自分の存在意義を実感する機会に恵まれず、その穴を埋めるために「少しでも完璧に近づかなければいけない」と思ったり、社会的ステータスを持っている人間に少しでも認められたい・嫌われたくないと思っているように見えました。彼らからすると、そんな勝手なことを思われるのは心外かもしれないのですが、とにかくぼくにはそう思えたのです。

(本当は、平気な顔をしている加害者、事なかれ主義でちゃんと対処しない企業や組織に対する煮えくり返るような怒りもあるのですが、ここでは置いておきます)

そして、そういう感情は全く特別な感情ではなく、「何者かにならないといけない気がする」「Instaのキラキラ投稿を見るとソワソワしてしまう」「大企業に入ったあいつは自分より偉い気がする」などの感情も含めて、むしろ程度の差はあれど大なり小なりほとんどの人が共通してもつ心の穴であることを考えると、そうなってないのはただ運がいいだけで、ほとんどの人間が被害者になりうる。実際に身の回りにそういった友達・先輩後輩が現れ始めたことで、ぼくは「みんなが自分の存在価値を自覚できるようにするにはどうすればいいのか」という問題意識を、より一般的な社会問題として捉えるようになりました。

解決策としての”エンタメ”への着目

そこからぼくの興味は『エンターテイメント』に移ります。

自分の体験を思い返した時、自分の存在価値を自覚するためには、前提としてそれを実感させてくれる友達ないし仲間が必要だと思ったのですが、我々は仕事やお金を言い訳にして人間関係を蔑ろにしがちです。それに対して、広義でのエンタメ(映画やゲームはもちろんスポーツやキャンプ等も含む)は「友達や仲間を創り維持する装置」として、世界で最も普遍的で優秀な装置だと思ったからです。

ちょうど啓示のように、「共通の感動体験や関心を共有する人々のコミュニティ”Community of Interest”を創り出す」を掲げた2018年のSONYの中期経営計画を見て、「この会社に貢献してエンタメを盛り上げれることは、みんなが友達や仲間をつくり、存在価値を自覚する助けになるはずだ」と思ったぼくは、居ても立っても居られず履歴書を送り、SONYの経営企画に転職したのでした。

コロナでの危機感:孤独では存在意義を感じる機会すら失う

ただ、その直後コロナが発生したことで、ぼくの問題意識は、もはや危機意識に変わりました。コロナでイベントやスポーツ等エンタメの機会が減ったことで、他人との接点や偶然性(セレンディピティ)が目に見えて減り、ニュースや調査でも「孤独」がより問題視されるようになりました。

人間関係なんて、ただでさえ常に遠心力が働いていて、どんどん希薄になっていくのに、このままだと希薄になるどころか、友達を作るキッカケもなくなってしまう。そうして一気に増えた孤独な人は、数年後には心無い社会の犠牲者になったり、むしろそうならないようにお互い先にマウンティングを始めるような、無秩序で「やったもん勝ち」のディストピアが待っているのでは。

そういう、思い込みともいえる「今すぐにでも、何かをどうにかしないと」という気持ちが、ぼくを起業とアプリ制作に駆り立てたのでした。

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