きをみずもりをみる

希死念慮に包まれることがある。ふとした時に、死にたいなと思う。それは生きたいから死にたいのか、死にたいから死にたいのかわからなくなるが、多分前者なんだろうなと思う。最期に「死にたくない」と思うような気がする。でも、人間自死を選ぶ時は、死にたいと生きたいを天秤にかけたとき、死にたいという思いが重くて、少し最期に「死にたくない」とポロっと無意識的にいってもその人は後悔がないのではないかな。

30になって、20代の頃の世界が滅亡していくような思考(?)はできなくなってきた。年齢というよりも環境がそうさせてしまっているかもしれない。藤本幽のように、毎日終電で、ひどい時にはタクシー帰りみたいな生活をしていると、あれ、なんで生きているんだっけ?生きている目的とかなんだっけ?と見失ってしまうことがある。生きる屍のように、何も感じず、何も考えずに生きてしまう。忙しすぎると、幽がいっているように、本当に何も感じなくなる。

演劇とは、何かというと、本当に生きていることを最大限に実感できることなのかなと思った。ああ人間が動いている、人間から人間に気持ちを動かす、気持ちに気づかせる、真に動的なものだなと感じる。私はあなたを動かすことはできない。でも、心を動かす、気持ちを動かしてもらえる、そこに嬉しさを感じた。心を感じることで、生きていることを感じることができる。

高校の時、生きる意味について考えたことがある。たくさん考えて、考え抜いた結果、生きる意味なんてないんだと結論づけた。それは、生きる意味がなくても、いまこうして生きているから。生きることの延長線上に死があるとして、生を感じることはあっても、死を感じることはあるのだろうか。死が近づくと、さらに生きていることを感じざるを得ないのかな。極限のようなイメージかな。

死の価値が軽くなる世界へ向かうのか。自死が国家容認の時代が訪れるのか。戦争のように命を軽くみる時代に戻ってしまうという考えもあるけど、戦争は命軽視が本質というよりも、日本軍幹部の保身、幹部の立場が危ぶまれるため、大義名分のもと、一億総玉砕を選択せざるを得なかった組織論に行き着くと考えている。戦争は良くない!と声高に言っても、最後我々は組織で動く生き物。組織として動くと本質を見失ってしまうことがある。(組織論も話すと色々あるが今回は置いておいて)自死は本当に自死なのか、人間個人として、本当に「自分の意思として」死を選べるのかはわからない。自死そのものは否定もしないし、いいと思うんだけど、人間は1人で生きてはいないから自死を選んだ環境はどうだったのか、不断に見つめていく必要があるんだと思う。他人が特定の人を自死に導くことは難しいことではないはずだから。

大学入試でいい点取るために、効率的な勉強法!など、「効率化」が子供の周りに蔓延っている。それに洗脳されて、コスパコスパと連呼して、いつもダルいしかいわないつまらない子供が量産される。そして、私にもその洗脳があった。効率的に勉強することが正義だと疑わなかった。それと引き換えに、幸せを感じることの大切さは失われていった気がする。セカセカと効率的に動けば動くほど、忙しくなることに気づかず、効率を求めている限りどんどん忙しなくなる悪循環だった。日々の穏やかな暮らし、一瞬一瞬の心の動きを楽しみ、他人と共有する。それが本当の「コスパ」、幸せのコスパなんだろうなと思う。

ひとまず、バスが着きそうなのでこの辺で終わりたいと思います。
演者の皆さん美しいな、素敵だなと見終わった率直な感想でした。

電車の吊り革に捕まって、揺れるシーン、洗練されて気持ちがよかった。すごい。

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