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タトエバ13 食べる -ALSだった母と暮らして-


難しい、大変だ。どうにかしたい。何とかしたい。その思いが僕たちを動かしていた。それは確かなことだった。それでも、思いがあることと、どう振る舞ったのかということに、動機付けるという繋がりを超えるものは表れなかったのかもしれない。

肝心なことは、細部へのまなざし。母に起きていることを掴まえる力。母が味わっていることを出来るだけ同じく味わう、想像を体感に近付けること、自分自身が手にする経験とすることだった。しようとする、では足らなく、いま目の前にたしかに表れている事実に誤魔化すことなく対処する、ことが必要だった。それが真っ先に形にならなければならなかった。「思い」は二の次だったのだと、「食べる」ことを振り返ると考えつく。

あーすれば、こーなる。理屈で捉え、頭の中だけで再現する世界では、まるで、いま生きている現実、母が生きようとしている、眼の前にある事実を掴まえ、自分のものにすることはできない。「思い」を簡単に「思い込み」に置き換えるのではなく、思い込みによって分かったつもりになる、その途端に切り捨てられてしまう、切り離されてしまう細部へのまなざしにこそ、母のための、母が欲しているもの、「思い」を実体にしていく可能性があった。

いまようやく、それが捉えられる。




食べる  23年5月25日


食べることが大変。介助しているぼくの方ですら心身を消耗させているのだから、母の大変さが推し量れる。一生懸命に食べている。それにとても苦しそうだ。食べている様子、表情を見ているだけで十二分にその困難さが伝わってくる。だからといって食べなければいい、食べさせなければいけない、とはいかない。生きているから。生きようとしているからだ。


母は食べようとしてくれる。出されたものを全て平らげてくれる。こちらの心が少し挫けて、残したまま終わらせようとすると、くびをふって残りがあることを知らせてくる。ほんとうに逃げないひとだ、母は。


ブレンダーでミキシングし、流動的にしたものを食べることができる。ただし、ただ流動的にすぎる、トロトロの状態では食べ難くなってしまう。スプーンの1口に、程よくかたまりになって口に入り舌にのせ、動きが弱くなった舌の力を補助するように、首を使って頭を前後に振る動きで、その1口を喉の奥へ送り込み、落とすようにする。舌が十分に動かせないことで、口に入れたものをコントロールすることが困難になる。食べ物のもどりが起こり、口の中で食べ物が入り戻りをして、食べづらさを増長させる。口を閉じる力も弱まっているから、口から溢れてきてしまう。気管と食道を区切る喉頭蓋のはたらき、飲み込みのはたらきはまだ健常に働いているから、食道に飲み込むという「食事」は十分に行えるのだけれど、食べるという行為はとても難しいものになっている。







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