見出し画像

タトエバ2 暮らし2 -ALSだった母と暮らして-



暮らし2  22年11月11日



アクションボード


父のためにアクションボードを作った。

声にするのが難しくなってきた母と、耳の悪い父が上手く会話をできずに母が怒り出すのを、間に入って取りなすのにこちらもうんざりするのが毎度で、ほんとうにどうしようもない。

分からないのに分かったふりをする。分からないことに平気でいられる。自分は分かっていると、分かることができていると錯覚しているから、分からないままの自分を省みて、修正することができない。例え、こちらがあーしろ、こーしろと言ってみたところで、自分自身が変化させる必要を見出していないのだから、受け入れて変わっていくことが起こらないのは当然なんだ。

適当だなあと思う。雑だなあと思う。考えなよと言うと考えてると答えてくる。それは考えてるの範疇に入らないよ、といつも言葉にしない言葉で繰り返す。

フォローするけれど、世の中の男の、父の、おじいさんの標準的な様子を眺めて比べてみれば、一生懸命だし、母のために頑張っているし、優しいし、十分に良い夫なんだろう。基本的に、男は、しかも、年寄はだめなんだと見なしてる。いまこちらが求めるようなことに対して応えられる細やかさ丁寧さを育てるようには生きて来ないから。それはたぶん、性差に基づくものがはじまりにあって、それと相まって夫と妻という関係によって長い時間を掛けて築かれて出来上がってくるものだろう。だから、しょうがないとため息を付くしかない種類の話をしているということになる。

でも、とにかく雑なんだよなぁ。

アクションボードは作ったけれど、それは使われずテーブルにただ放って置かれてる。

指伝話というアプリを使って、すこしだけ会話を取り戻せたというのが理由としてある。ipadを使って、自動にもできるがこちらの操作で1文字1文字スキャンし、母のサイン(うなずきなど)を受けて文字を選択できる。そして、その文字を画面上に残していけるから、受け手の負担が大分削減できる方法だ。これなら、さすがの父でも利用することができる。母がいくら話しても、何もわからないまま適当にトンチンカンに済ませようとしていた父も少しはこれを使うことを覚えたみたいだ。そのおかげで、手作りのボードは宙に浮いてる。

いまはもうひとつ、視線誘導で入力できる機械を導入しようとしている。使ってみると想定以上に骨が折れる代物ではあるけれど、慣れて使いこなせるようになれば、いまよりももっと自立的に意思を伝達できる手段が手に入りそうだと、トライアルをしてみた母が理解してくれたので、自治体の補助を申請して、手に入れることにきめた。いま申請のための準備をはじめたところだ。

それでも、ぼくは母と言葉で会話しようとし続ける。

声がでなくてもいい、出さなきゃと思わなくていいと言って、声にならない声で話しをするように母を促している。催促しておきながら、読み取ることができないぼくに、母を怒らせて悲しませてがっかりさせてしまうことが度々だけれど、それでも、どちらかと言えば、その駄目な方法で話をしようとし続ける。テクノロジーはぼくたちを助けてくれる。これまでにはなかったものを僕たちに齎してくれる。でも、それだけでは足らない。世間がいう進歩や進化の意味は、ほんとうは僕たちにとって付属的なものであって主体的なものではないと、ぼくは考えている。大事なことは、自分は何を考えどう振る舞おうとするのかということで、それはとどのつまり、それを考え続けようとする自分がいるかどうか、ということだと思う。




父に対して憤懣やる方ない。それが暮らしに付き纏う厄介事だった。

長い時間を隔てて、また同居を始めた。母を支えながらの暮らしの中で、父という人間を改めて知っていくことになった。お互いに、昔とは違ってしまった。子供から一応の大人になり自分の世界を作り出してきたこちらと、大人の親が子離れしてから、仕事を終え年相応に老いてきたあちらが、以前のようにはいかないのがふつうだ、とは思う。ただのお爺ちゃんになって、ただの大人になった。順番通りに役割を変えて、立場を移っていく。関係を変えていく。いまの「ふつう」はもう以前の「ふつう」では居られくなっていた。

父が、母を看ることはできない。僕たちには、できることとできないことがある。例えばALSという病気に対することもそうだった。「思い」とは関係なく、展開する現実としての「無理」はどうしようもなく表れる。母とその病気とこの家で暮らすことは、父にはできないことだと思った。父は頑張った。出来ることをしようとしてくれた。僕と母のやることを少しでも代わってくれようとした。家事全般を担ってくれた。父のような夫は世の中にそうそういないと思う。でも、できなかった。

できないのは、考えないからだ、と見て取っていた。何度、「考えてくれ」とお願いしただろう。その度に父は「考えている」と応えた。「考える」が違ってしまっている。父は自分が「考えている」と思っている。こちらは父がまるで「考えてない」と見ていた。「できない」ということは、そのできない人にとって、できない、というように受け取ることができない、という話しだ。認識がそこに存在しない、ということだ。

父を解釈して、何とか納得をしようとして、どうにもならないものにどうにか折り合いを付けていく。父ができないと分かっていても、なぜできないんだと、同じように繰り返し当たってしまうくらいに、こちらも背負うものに一杯になっていた。理解できないものを理解できたことにして、その不透明なままなものを無理やり飲み込んで、消化できたと思って誤魔化していくからこそ、余計に苛々を抱え、自分自身のバランスを失っていく。

それが、母に接する態度にまで悪影響を及ぼしていった。そのことを自覚していた。

思いがあれば何とかなる。頑張れば何とかなる。そうはならないものが側にある生活だった。決して父が悪いのではない。母と、病気と、共に暮らす。家族と共に暮らすということに、避けられなく付き添っていたものの話しだ、これは。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?