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タトエバ1 ALSだった母と暮らして

筋萎縮性側索硬化症(通称ALS)という病気に罹った母との暮らしが終わった。昨年の11月の終わり、母は逝った。家で最後を看取ることになった。ALSは治す術がない病気。体が少しづつ動かせなくなっていく。そしていずれ、呼吸ができなくなる。もしくは、食事が採れなくなる。そうして、終わりがやってくる。人工呼吸器を付けて、胃に管を通して栄養を取るという方法で、生きる可能性が広がる場合はある。けれども、母はそれらの方法を手に取ることは望まなかった。

4年3ヶ月。それが病気の発覚から終わりまで、母が生きた時間の長さだ。
その内の最後の2年8ヶ月、僕が母の側に居られた時間だ。母の代わりになって、母から失われていくものを少しでも補うことができたら、と思っていた。母は、病気のことを親戚と一部の友人にしか知らせなかった。家族と、病気になって出会うこととなった母をサポートする人たちに囲まれるだけの静かな暮しだった。

静かな暮しなのだけれどそれは、着実に症状が進んでいく病気にどう向き合うかというもので、色んな難しさを目の前にさせた。一番の困難を抱えていたのはもちろん母。母を真ん中にして家族にも、思いだけでは片付けられない課題が突きつけられてきた。病気を静かに受け入れている母に、この生活を言葉に表そうとは思っていなかった自分が、はじめに文を綴ったのは、22年9月25日。「暮らし」というタイトルを付けた文章だった。

会話がもう難しくなっていた。声は出せてももう会話にはできない。体はもうほとんど動かせず、母の暮らしのすべては介助されることで繰り広げられていた。その夏には、自分の建築の仕事を終わらせ、母を支える「仕事」に専任することにした頃に、この暮らしのことを書き始めた。それは続いていった。母が死んだことも、母が居なくなってみてからも、続けている。

これから順を追って、母との暮らしで書き残された言葉をもう一度取り上げて、振り返っていく。当時の浮かんできたそのままを綴った自分だけに向けた言葉に、補足して、解説を加えて、いまだからこそ言葉になるものを追加して、母と僕が暮らした時間を言葉にしていく。それは、例えばの、たった一つの、僕たちの元にしかやってくることはなかった話しにすぎないのだろうが、それでも、どこからのだれかの、似たような境遇に置かれたひとの暮らしに繋がっていくことがあるかもしれない、と思う。母と僕が繰り広げたものが誰かの役に立てれば、と思う。

病気は分かち合えないが、状況に共感し、手応えを共有することはできる。それは、母がALSに罹った友人、まるで並ぶようにして、同じ状況を持った友人と交わした言葉が、自分をどれだけ支えていたかという感触が示してくれていることだ。

例えばの、一つの暮らしを書き始める。




暮らし   22年9月25日


母の起床に合わせて、自分も布団をでる。

朝の起床は父に任せている。ベッドを起こし、車いすに乗り換えさせる。靴下をはき、トイレに移動する。

家のトイレでまだ済ませていることはすごいことなんだろう。母がいまだに頑張り続けてくれているという事実だ。少し広く作っておいたトイレだから車いすを半分乗り入れるることができる。自分が体を抱え立たせる。父に下を脱がせてもらい、2人で体を半回転させることで着座する。

常にだ液を拭い取ってあげることを忘れない。飲み込む力が弱まってからはだ液とどう付き合うかが一つの課題になっている。ティッシュで丁寧にしっかりとでもやさしくその都度取り去ってあげる。トイレのひとつひとつの介助をしながらでもそれは同じだ。

朝のトイレを済ませたら、しばらくは座って過ごす時間をつくる。リクライニングソファに移り、楽な体勢にしてあげて、ごはんの準備を待っていてもらう。

ごはんはすべて自分が用意する。嚥下がうまくいくために、嚥下の際に一番のリスクが生まれるから、料理の状態や食べさせ方を均一にして間違えないようにするために、自分が専任で担当することにした。自分たちのごはんは父に任せきりだ。

基本におかゆを作る。水分量や状態に気を配ったおかゆだ。そのおかゆと混ぜ合わせることで飲み込みやすいように適度なのどごしになるように、おかずの品々をブレンダーでくずした状態にするように準備していく。父が作ったおかずをそのままブレンダーしたり、パウチのおかずを開けたり、できるだけ多彩なメニューで食べてもらえるようにする。おかゆやおかず、どれも水分でふかされたようなものがどうしても多くなってしまうからこそ、栄養のバランスを意識するようになった。タンパク質がきちんと取れるようにする。この半年で体重が下がり続けているのが気になるところだ。

ごはんは、スプーンあたりの適量を、無理をさせないスピードで口にはこんであげる。のみこむことが一番の大変だ。がんばっている母の様子を見るといつも、できるだけ美味しいものを、できるだけ楽に、食べさせてあげたいと思う。2,3口ごとにとろみ水をはさんで取ってもらう。喉頭蓋のみぞにすこし残りがちな食べ物を流し込むためだ。口に入れるものは、ちょうどよくしっとりとして、ばらばらにならずほどよくまとまっているのがのみこみやすい。ゆっくりと30分くらいかけて一口一口ごはんを食べる。

粉末の薬をヨーグルトやブレンダーしたフルーツと一緒に摂る。食事が終わると口内ケアにうつる。口内の食渣をだ液と一緒に拭い取る。専用の便利なブラシのおかげ工程が少なくなった。歯間ブラシを通し、一通りのブラッシング、都度水を含ませてうがいをして吐き出してもらう。最後に口内用のクリーンシートでぐるりぬぐい取り、一旦でもさっぱりした心地になってもらう。

この一連が朝のルーティーン。昼も晩も食事の流れは一緒だ。

楽な姿勢になって、テレビや録画しておいたビデオを観て、朝の時間を過ごす。その間に、台所の片付けや自分の食事を済ませてしまう。いまは、横になっているのと、起きて座って過ごすのを半分半分くらいで繰り返してもらっている。座り続けるのも楽ではなく、同じ体勢で居続けることの大変と、もちろんだ液が溢れてくることの大変が起こる。それでも、寝たきりになってしまうことをできる限り先送りしていくことを目指して、居る状態をこまめに変化させていく生活を母には頑張って取り組んでもらっている。朝食を取り、2時間くらいを座って過ごし、そうしたら、2時間横になる。お昼ごはんの前までだ。午後も同じように、食べる、座る、横になると変化させていく。座っている時間には、リクライニングソファで固まってしまう体をほぐし、使っていない体に運動を起こさせるために、ときおり起立をしてもらう。といっても、こちらが、無理矢理に立たせているという方が合っている。もちろん母にとってはそれも負担の大きいことだとは分かっていても、その無理を強いている。

失っていくしかないことだとしても、それをただ真に受けて受け入れるだけの気持ちはみじんもない。僕も母もきっと同じ。同じ考えをしている。親子だからだ。


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