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一口法話 【業】

平成30年に往生いたしました、当山正國寺前住職の英彰が昭和45年から始められ、毎年発行しております寺報に掲載の法話や詩、ご門徒様の寄稿をご紹介していきます。
※内容は適宜、修正し掲載している場合があります。

【昭和45年掲載 前住職英彰の一口法話】

㈠コツコツ小金をためても、荒金をにぎって一財産つくっても助からぬ。
 ためたものはなくなる。無理をしてとったものは早くなくなる。
 身についたものしかもってゆけぬぞ、
 それを業(ごう)という。


【若院のあじわい】

「業」という言葉を聞くと、よく間違われるのが宿命論的な業のとらえ方です。
なにか、「背負った罪やその罪の報い」というようなニュアンスで業を語られる方がよくいらっしゃいます。これは西洋、キリスト教的な人間観なのかな~などとも勝手に思ってますが、、、
そのような見方で、この詩を読んでしまうと、多分なんと救いのない、罪人のような気になってしまいますね。

【業】とは広い意味での行為、結果を引き起こすはたらきの事です。
私は何に縁って起こっているのか。その私というものを引き起こしているのが業なんですね。
それを、私の受けとりで表現させてもらうと、「私は何を背負い、又は、何を支えに生活しているか」「私の生き方のよりどころ」とでもいえるのかな。それが、この詩で言われている所の「身に付けたもの」なのかな、などと思っています。
わたしをつくっているもの、それが「業」なのだと思います。

仏教の根本原理で説かれているように、この世は「諸行無常・諸法無我」。世界に永遠の実在が存在しないため、この世界は変化を続けます。物質的にいくら豊かになろうと、私達は老い、病に倒れ、最後には亡くなっていかねばならない身です。
私たちは、その様な命を生きていることを頭ではわかっていても、なかなか普段の生活の中では「ささえ」「よりどころ」とするものが、どこか物質的なものにとらわれてしまがちです。
しかし、生、老、病、死という命の真実の姿に直面した時、物質的なものは果たしてよりどころになるのか?

その時、よりどころとすべき真実のものは何か?

前住職に説かれているような気がします。

『浄土和讃』
阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃迎せしむれば
功徳の宝を具足して 一念大利無上なり

諸行無常・諸法無我の世界において、変わらず私たちに安穏な喜びの生活をふりむけてくださっている仏様がいらっしゃいます。
このような、お念仏とご一緒の生活をふりむけてくださる真実の教えにぜひ出遇ってくれよ。と前住職はこの詩を書いたのかな、などと思っております。

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