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一口法話 独生独死独去独来

平成30年に往生いたしました、当山正國寺前住職の英彰が昭和45年から始められ、毎年発行しております寺報に掲載の法話や詩、ご門徒様の寄稿をご紹介していきます。※内容は適宜、修正し掲載している場合があります。

【昭和45年掲載 前住職英彰の一口法話】

㈠ 裸一つで生まれたから、真っ裸でいかねばならぬ。覚悟はよいか、、、
 覚悟の出来ぬままでよいぞ。

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【若院のあじわい】**

『仏説無量寿経』(註釈版、56頁)
 人、世間愛欲のなかにありて、独り生まれ独り死、独り去り独り来る。
(人は世間の愛欲の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生まれて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。)

このように、私たちはたとえ、家族であっても命を一つに生きることは出来ない。我が子が、我が親が痛み苦しんでいても、その傷み、苦しみを感じ共感することは出来たとしても、その傷み、苦しみを自身で完全に共有することは出来ません。
独りで自身の命と向き合っていかねばならない。
そんな時、道しるべ、ささえとなってくれるものは何か。
お金を貯めても、使えばなくなる。強く鍛えぬいた体もいずれ老いる。詰め込んだ知識もいずれ、消えて行く。
その様な世界に囚われたまま生きて行かなければならないのであれば、確かに覚悟を決めなければなりませんね。

だけど、私たちはそれだけではないはずです。

『高僧和讃』(天親讃)
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

私の痛み、苦しみを我がこととして涙して下さるお慈悲、私の前を照らしてくださる光がある、どこまでもご一緒して下さるお方がおられる。
それを、今きかせていただいたように思います。

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