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一口法話 人生

平成30年に往生いたしました、当山正國寺前住職の英彰が昭和45年から始められ、毎年発行しております寺報に掲載の法話や詩、ご門徒様の寄稿をご紹介していきます。※内容は適宜、修正し掲載している場合があります。

【昭和45年寺報掲載 前住職英彰一口法話】

㈠ 生の関門から人生に入るのでなくて、死の門より入れ。

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【若院のあじわい】**

なかなかシンプルで前住職らしいこの詩をいただいて、生(しょう)という事を、今一度考えさせていただきました。

皆さんは生と死と聞くと、どのようにイメージしてますでしょうか?
反対の言葉?対立する言葉?
生を使い切ったら死が来る?
生という部分が終わって死が来る?
生があるから死がある?
色々なとらえ方があるかと思いますが、一般的にイメージすると、生が終わって死が来るというような順番のイメージではないでしょうか。
【生】→【死】

仏陀の涅槃の場面などを説いている『遊行経』では、「生」をどうとらえているか。
生きているとはどういう状態であるかというと、「生きている状態」と「死という状態」を両方持って生きている状態と捉えています。命は「生」と「死」を両方持ちながら生きている。それに対して、死の状態とは「生きている状態」を手放し、手元に「死という状態」だけが残っている状態の時に死が来る。と考えられています。
【生】【死】→【死】

よく、「生まれたら必ず死が訪れる」という事は、よく皆さんおっしゃられます。死は必ず訪れる、だけれど、それは先の事としてどこか考えてしまっていませんか。自分は、まだ手元に「死」を持っていないと思って生きている。

少し前に話題になったもので「人生の時計」というものがありました。生年月日を入力すると、今は人生の何時何分と出てきます。

私は今27歳です。時計にすると午前8時12分らしいです。まだまだ朝ですね。これから一日が始まろうって時間帯です。
この考え方は、一般的に何も違和感はないかもしれません。しかし、果たして本当にそうでしょうか。
もし、私が今夜眠りに落ち、そのまま目を覚まさなかったら。きっと、「あと何年は生きているはずだったのに」と残された家族は「なんで、なんで」と多分ですが悔やんでくれることでしょう。しかし、その「何年生きるはず」というのは、私達がつくり出したはからいでしかありません。
「生」の後に「死」が来るのではないんですね。

どのような人でも、何歳であっても、縁がもよおせば生を手放さねばならない。
仏教的に人生の時計を作るならば、私たちは生まれた瞬間から、23時59分で針が止まった時計なのかなとイメージしています。

だからこそ、「あと何年」、「もうこんなに進んだ」、「まだこんだけなのに」と自分たちで作りだした不安に右往左往させられるのではなくて、かけがえのない今の連続が私たちの生活を作っている。

だからこそ、たとえどのような最期、大往生といわれるものであろうが、独り寂しいものでであろうが、善悪などなく、皆かけがえない生を生き、往生されていく。

そういただけると、私たちのこの瞬間、「今」がとてもありがたいご縁としていただいていけるのかなと思います。

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