二つのユニークな呼びかけ
ゼファニヤ2:1-3
家系が記されているものの、不詳と言わざるをえない預言者・ゼファニヤ。ヨシヤ王への言及が含まれていることのほか、歴史との接点は分かりません。エルサレムへの関心が強く、神の審きの日のことを描いていることは間違いありません。その短い箇所だけ取り上げますが、そこでの呼びかけの中に、ユニークなものを見せられました。
恥を知らぬ国民は、本来審かれて然るべきでしょう。他の預言者ならば、容赦なく罰されるのだ、と畳みかけたことでしょう。中にはどうしてそこまで厳しく罰されなければならないか伝わってこないものすらありますもちろん当事者としては、イスラエルが酷い目に遭ってきたことへの報復の思いが強いのだろう、とは想像できます。
今のパレスチナにおける応酬からも想像がつくような気がします。ここでは、吹き飛ばされてしまわないうちに主を求めよ、と悔改めを促していました。ヨナが、ニネベの町に滅びると訴えたら神が町を救ったという話があります。ゼファニヤも滅亡を預言しますが、もしかするとまだ救いの可能性が秘められているのかもしれない呼びかけでした。
次に、地に苦しむすべての者たちへの呼びかけがあります。主の法に従ってそれを行った者たち、こちらは善なる側にあります。しかも弱い立場にいるようでもありますから、イスラエル民族を想定しているものと思われます。その小ささ・弱さに屈せず、あくまでも義を求め、謙遜でいるならば、主の日にかくまわれ、守られるだろうと告げています。
直ちに喜びと救いの日であるのだ、と単純に定めているわけではありません。が、救いへと導かれることは押さえています。この辺りの構造は遠慮がちに見えるようで、絶対的な勝利をうたうであろう、他の預言書とは一線を画したものとなっています。苦しみに耐えてきた重みは、自分の力に頼らず、主の施す恵みの業に期待するよう促されるのです。
これら二つの呼びかけは、聖書の発想に慣れた私のような者を、立ち止まらせてくれます。福音に慣れてしまい、よく聞かずに自分の思い込みだけで理解したつもりになることから守ってくれます。主の日、その怒りの日に起こることは、安易に分かっているよなどと言って、神の意志を知り尽くしたかのように決めてしまうわけにはゆかないのです。
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