見出し画像

獣に何をされようとも

そして、竜は海辺の砂の上に立った。(黙示録12:18)
 
先週取り上げた12章の最後の場面から、今週の礼拝説教が展開する。この後、獣が現れる。一匹は海の中から。もう一匹は地中から。
 
海。聖書で海というと、恐ろしい世界を暗示する。というより、当時の人々にとり、海は得体の知れない怪物の潜む場所であり、不安と死を呼ぶものであったことだろう。山もまた、同様に謎めく場所であったことだろう。これがヨーロッパになると、森という謎が加わるに違いない。
 
ダニエル書にも描かれている、獣の幻が、黙示録に復活する。象徴的な描かれ方には、意味がある。というより、当時の人々には、当たり前のように分かるものだったはずだ。分からなければ、記す意味がない。私たちが、いまのこの時代の風景の中で、ちょっとした風刺も、ノリも、誰もが分かるのと同じように。しかし、半世紀後には、それが伝わらないとしても仕方がなくなる。世代間ギャップが普通にあることを思えば、時代も文化も変われば、それが通じないのも当然だ。
 
但し、そもそも黙示文学というものが、あからさまに分からない形で書かれていたという前提があることを考えると、当時の人々にも通じなかった可能性もある。こういった疑問も含めて、なにもかもが謎なのである。
 
竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。(13:4)
 
サタン崇拝というものを、露骨に表に出すようなオカルトもあろうかと思う。しかし、大抵はそうではない。まさかこれがサタン崇拝をしていることになるのか、と、当人は気づかない構造がそこにある。私たちは、どうかすると、「聖書」を偶像にしていることがあろうかと思う。「パウロ」などは、いとも簡単に偶像にしてしまうのだ。これについては偶々この日、私は別に触れている。
 
国家とか帝国とかいうものも、崇拝の対象になりかねない。いったい「国家」とはどこにあるのだろうか。しょせん抽象的なものに過ぎないのではないだろうか。見えないものを拝んでいる点では、ただの偶像とは違うような気もする。また、だからこそ巧妙に、神とすり替えが起こるかもしれない、というところにまで目を配りたいと思う。
 
説教者は、パウロの例の権威崇拝めいた発言を取り上げる。キリスト教の、とくに近代社会の流れの中にいる教会からは、問題視されることの多い箇所である。
 
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマ13:1)
 
権威は神に立てられた。だから権威を重視することは、神を崇めることに直結する。分かりやすい論理である。国家というものをどのように見るかは、時代の常識により異なるであろう。権威が即国家なのではない。ギリシアは古代、直接民主政に価値を置いていたために、大きな組織を国家とすることはできなかった。「権威」という言葉によって何を想定しているのかは、その時々であるに違いない。
 
だから、巨大帝国や現代風な国家が、パウロの記すあの「国家」だという決めつけは、議論を外すことになりかねない。権威による治安があるからこそ、市民は平和な生活を営むことができるし、自由も生まれる、そのように捉える道があるとすれば、パウロが何を言おうと、それはそれでひとつの筋の通った話なのである。言葉の定義ができないままでは、何を問題としても、話が噛合うことは期待できない。
 
パウロに従えば、ここで想定されている「権威」は、神により立てられたものである。だとしても、それですべてがそのまま安泰なのではない。説教者は、それが悪魔化することがある、と警戒する。それは、悪魔化といったその言葉の通り、背後にこのような竜がいる、ということである。竜が、その権威を与えたというからくりがあるのだ。
 
ただ、悲しい哉、人間には現場でこのからくりに気づくことがない。全くないかどうかは分からないが、概ね気づかない。人間の知恵をいくら集めても、それだけでは悪魔に対抗できるものではない。
 
このような悪魔についての人間的な考察は、すべてを論理づけ、解決するようなことはできない。が、だからといって、それを忌避していてよいはずがない。否、そもそも悪魔など考えないようにしてしまっている教会すら、現にあるように私には思える。そのうちに、悪魔のことすら忘れてしまう。実のところ、忘れさせられてしまっているのだ。
 
そしてそれこそが、竜が権威を与えた獣の姿である。私が懸念するのは、教会が、その獣と化すことである。あるいは、もしかするとすでに獣としてそこにあるかもしれない、ということである。
 
地中からの獣は、第一の獣の後押しをして、さらに徹底した分離を促す。神の審きへ向けての段取りが、着々と進められることになる。
 
しかし、説教者はそこに拘泥することなく、説教を福音へと向き変える。
 
捕らわれるべき者は、
捕らわれて行く。
剣で殺されるべき者は、
剣で殺される。
ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。(13:10)
 
これは第一の獣についての言及の最後である。説教者は、ここに原文の妙を説明に加えた。ここで捕らわれ、殺される者というのは、どうしても捕らわれることから、殺されることから、逃れられないでいる、というニュアンスが含まれている、と言うのだ。イエスが、自分を必ず殺されることになっている、と予告したときのように。
 
だが、イエスはそのとき同時にまた、復活することになっている、とも言った。そうだ。こうした者たちは、結局は救われるはずだ。神はその涙を拭うだろう。捕らわれても、神は自由を与えるだろう。殺された者は、復活させられて、永遠の命を得ることになるだろう。
 
その後第二の獣が、世を惑わす。獣を拝ませただけではない。
 
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。(13:15)
 
ここでもまた殺される。しかしその死は終わりではない。そのために私たちがどんなに涙を流そうとも、神はそれを拭い続ける。神の民は、それでもなお涙を流すだろう。神の救いが完了するまでは、苦難を抱え、暗い海を目の前にしたように、佇むことだろう。
 
説教者は、この辺りから、すでに凝縮されたエッセンスを一気に流し続けるように話すようになっていた。語る一つひとつの言葉が、すべて輝いている。それまでのゆったりとした口調が、ラヴェルのボレロの終盤のように、情熱をもった語りになる。その内容は、聞いた者の心に、確かな振動を与えたはずだ。聞く耳のある者は、それに共鳴を覚えただろう。

「忍耐と信仰が必要である」「知恵が必要である」と、この章には、私たちに必要なものに触れる箇所があった。だが、それらは私たちの内から供給されるべきものだ、とはとても考えられない。もちろん、「海の中から」でもないし、「地中から」でもない。
 
この章には「地上」のことしか書かれていないが、確かに存在するのは、地上を見下ろす「天」である。最後には、聖なる都エルサレムが「天から」下って来るのだが、その前触れとして、「天から」聖霊がすでに降っているのである。神の声が「天から」聞こえ、「天から」来たイエスの言葉も重なる。たとえ獣に何をされようとも、神と私たちとの間を遮るものはなにもない。イエス・キリストがいるならば、あらゆる遮蔽を通過する。すると、「天から」の愛が、真理が、私たちに力を与えるのだ。そうして初めて、「忍耐」も「信仰」も「知恵」も、生まれることになるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?