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傷物でもいいのなら

マラキ1:11-14 
 
傷ついた動物を献げ物として持ってきても、主はそんなものを受け取りはしない、とマラキは言いました。表現は反語をとっており、より強調している感があります。これはなんだか、主がずいぶんとけちくさいことを言っているようにさえ見える気がしませんか。傍から見ればそのように思われるかもしれません。献げ物であればいいじゃないか、と。
 
そもそも動物の献げ物とは生け贄のことで、ずいぶん残酷なことをして嬉しいのか、などと反抗する姿勢も今ならあり得ます。特に現代的な観点からすれば、残酷です。が、私たちは依然として塗擦した動物の肉を食べ続け、動物実験のお陰で医療の恩恵を受けています。死が、見えるところから隠されているだけのことだとは言えないでしょうか。
 
翻ってここを見ましょう。責められているのは人間の方です。人が、献げ物として傷のあるものを差し出したことが問題とされているのですが、さてそれはどうしてでしょうか。傷のあるものを主に献げ、偽る者は呪われよ。これはきつい言葉です。でも、確かに言われている主の裁きです。神が主人で人間が奴隷であるという図式故の掟なのでしょうか。
 
大いなる王、この主の名が国々の中で畏れられているから。これが理由のように書かれてありますが、それだけではまだ納得がいかない人もいるはずです。このような傷物の献げ物をするとき、人は実のところ、主に仕える者ではすでになくなっており、自分を神とし、最大の権威者であると自らを見なしていることに気づく必要があろうかと思います。
 
自分が最高なのです。だからそれより下の神は自分に仕えるべきであり、こいつにはこれくらいのもので十分だろう、と見くびるのです。問題はここなのです。それをもし神が受け容れたなら、神がこの人間に仕えることを認めたことになってしまいます。しかしこれは、神の祝福などというものとは正反対の、呪いに該当するしかないわけです。
 
神の正義、神の秩序のほうが、あなたの自己満足などよりは比較にならないほど大きいのです。それにしても、この箇所の冒頭で、日の出る所から日の沈む所まで、つまり全世界で、人々が皆この主を神として崇めることになる、と預言されていたことは、軽く見るべきではありません。もっと重大なこととして注目する必要があります。
 
この背景があったからこそ、献げ物の検証も行われたのです。世界がすべて、この神を神として従います。同じこの方に向き合います。そこにおいて献げ物をするかどうか、最高のものを献げるかどうか、それが問われているのです。人と神との関係が問われているのです。もちろん、あなたと神、私と神との関係もまた、そこに含まれています。

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