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説教者自身、最近の出来事を重ねて、いろいろ迫ってくる思いがあったのかもしれない。10年という時を振り返り、この教会で福音を語り、魂の配慮をすることができたことへの感謝が滲み出る説教であった。
 
実は、マイクの具合がよろしくなく、ずっと小声だったため、聞き取れなかったところがある。もちろんいつもそうだが、ここは説教を再現する場ではなく、説教を通じて与えられたことを、神に応答する場だと理解している。説教者が言わなかったことを、さも言ったかのように書いていると見られるところもあるだろう。私の考えが、さも語られた言葉であるかのように見えるときもあるだろう。そこでの責任の所在についてだが、すべては私の心の中での出来事であって、拙いところは説教者には責任がないことをお断りしておく。逆に、もし素晴らしいことをここで記していたとしたら、それは説教者を通じて射し入ってきた、神の栄光である、ということは、言うまでもない。
 
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)
 
今日の説教では、この言葉が繰り返されていた。ただこれだけが、伝わればよかった。パウロがどんな思いで福音をこうして語ってきたか、そのような解説も、必要だったかもしれない。だが、今日に限って言えば、そのような必要はなかった。
 
ローマ書は、パウロ思想がまとめられていると言われる。救いの教義が8章まで、かなり理屈っぽく書かれている。9章から11章までは、イスラエルの救いが語られるが、それは、神のミステリーを称えるためでもあるようだ、時に、異邦人さえ救われればよいとか、イスラエルはもう捨てられたとか思う異邦人がいるかもしれないが、そういう後世における偏った見解を予想したかのように、パウロはイスラエルと異邦人たちの救いの意味を説き明かす。
 
そして12章からは、生活の教訓とでもいうのか、私たちの実践的な生活の指針が綴られる。最後は16章で、ひたすら個人名を挙げ、教会とライブでつながっていることを占めそうとしているけれども、この16章が最初からあったのかどうか疑問視する研究者もいることを思うと、パウロが手紙の後半で訴えたかった信仰生活の極意のようなものが、いまこの12章で始まったばかりである。
 
そこで、先ず「愛には偽りがあってはなりません」と、兄弟愛の尊さを掲げる。そして、教会の大きなテーマでもある、「主に仕えなさい」という、鋭いフレーズが向けられる。これはまた、抽象的に神を愛します、と口で称えておればよい、というものではない。その証拠に、ここに続いて「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(12:13)というような言葉が、自分たちの信仰の行動を促しているからである。
 
この「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」たというのは、イエス・キリストの姿でなくて、なんであろう。
 
福岡出身の、まあライターとしておくが、ブレイディみかこさんがすっかり有名にしてくれた言葉がある。「エンパシー」である。普通なら「シンパシー」という言葉を使いがちな私たちだが、長男がイギリスの学校で、これをよい具体例で理解していたというエッセイである。
 
接頭語が異なる。「バシー」は「パッション」に通じる「感情」を示すであろう言葉であるが、「シン」は、ギリシア語の「共に」の意味、気持ちを共にする共感、という良い意味に響くのであるが、「エン」は英語でいうなら「中に」の「in」であるから、こちらの共感は、感情の中に入るイメージが伴うであろう。つまり、「シンパシー」にはどうしても、「同情」という、外から見て、そしてしばしば見下ろすような見方で感情を沿わせようとするのに対して、「エンパシー」は、ひとの心の中に自分も入っていく感覚、「感情移入」あるいは「自己移入」を表しているように感じさせるというのである。
 
よく、困難にある人に「寄り添いましょう」というような言葉が、教会で飛び交う。だが、発言する当人がよいことをしているという気分になるのとは裏腹に、当事者にそれは冷たいのではないか、と私は常々考えていた。つまり「寄り添う」のは、「シンパシー」に留まるように見えるからである。
 
だが、イエスは違う。「自分のものとして」助けることができるからである。このことは、私たちへの指針として、次のようにも告げられている。
 
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(12:16)
 
説教者は、ここにイエス・キリストの姿がある、と指し示した。そして、「貧しさを分かち合う」こと、そこにこそ「偽りのない愛」があるのだ、と説く。
 
このことは、教会の原理であるべきだ、と説教者は訴える。そんなに強い言葉で言ったわけではないが、それが伝わってきた。「教会」という言葉は、どうしても建物や組織を指す語と捉えられてしまうが、本来は人々の集まりのことである。キリストにある者として、共にキリストを信じる信仰でつながる者たちが、「教会」である。互いに、信仰の仲間として受け容れ合うことをせずして、「教会」は存立しない。
 
それは、しばしば、仲良し倶楽部のように変じてゆく誘惑をもっている。よそ者を入れないという仲良しは、教会の安定につながることだろう。だが、新しい人を迎え入れ、新しい風が吹いてくることで、キリスト者は、そして教会は、新しくされるのだ。私たちはますます聖なる者へと、変えられてゆくのだ。このようなことを、訴えていたように、私には聞こえた。
 
日本社会の、少子高齢化社会と、経済的な不都合とは、政治の大きな問題であるが、教会は、実はそのパイロット組織のように、先行的に現実化している。人口は減り、高齢になり、経済的な破綻が迫り、この先組織としての継続が明確に危機に陥っている。そうなると、教会の収入が減り、それでも牧師とその家族を養うとなれば、伝道費が削られることになる。否、他の教会へ献げることが、真っ先にカットされてゆく。
 
教会員は十分の一を献金すべきだ。こう掲げる教会は数多い。だが、私の母教会は、牧師も十分の一を献げるのはもちろんのこと、教会も、常に他の宣教団体や慈善活動に、十分の一を献げる、という予算を整えていた。私も会計を担当したことがあるから分かるが、小さな教会のため、それは時に苦しかった。しかし、他へ献げるのを削ることは、絶対に許さなかった。献げるところに神から祝福があることは、聖書を信仰する者の最低のラインだからである。
 
運営のために、他へ献げることをしなくなった教会は、信仰をなくしたただの社会的組織になってしまう。教会としては、名前だけはあるが、もはや死に体である。信仰を実践できないからである。もちろん、この辺りは、私の声であって、説教者の言葉ではない。
 
説教者は、眼差しを能登に向けた。半年前の、あの元日の大地震の地である。もちろん、被害は能登半島だけではない。新潟や富山なども大きな被害を受けている。ただ、阪神淡路大震災の神戸のように、ひとつのシンボルとして、被害の中心地が能登半島であるという認識があるといえる。
 
忘れてはならない。それは、東日本大震災でも、阪神淡路大震災でも同じである。また、沖縄戦も、そうである。男性アイドルグループの二人がリードするラジオ番組「ガチモン!」で、6月22日(土)に、【INIとニュースを考える 「慰霊の日」を前に沖縄を考える】と題した特集が放送されていた。若い世代に知ってほしい、という社会問題を掘り下げるのが目的の番組であるが、とてもよい味を出していた。
 
知らせなければ、分からない。伝えなければ、気づかない。アイドルのラジオならば、と聞いた若者がいたなら、きっと沖縄について、わずかなことではあったも、知るべきことをかなり聞くことになっただろうと思う。
 
説教者は、最後に、「主が共におられる」こと、つまり「インマヌエル」ということについて言及することで、説教を閉じた。そこには、私たちの痛みも苦しみもご存じであるイエス・キリストがいる。私たちの痛み以上のものを味わったお方である。十字架の苦しみは、私たちが気軽に「ハレルヤ」と言えるようなものではないはずだ。慣れてくると「形骸化」というものが避けられないのは世の常だが、教会は「世」ではない。だからまた、教会は、世が与えることのできない結びつきをもたらすし、説教者が強調した「慰め」を与える場でもあるのだ。
 
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)
 
この言葉だけが、心に残ればよいのであろう。ただ、確か三浦綾子さんが言っていたと思うのだが、人間、「共に泣く」ことは案外できるけれども、「共に喜ぶ」ことはできないのではないか、という指摘も戒めとしたい。真底でないかもしれないが、「もらい泣き」であったり、「ポーズ」であったりして、「共に泣く」ことは、社交辞令のようにして可能であろう。だが、人の喜びに伴って喜ぶというのは、陰の心に、妬みや蔑みすら混じることがあり、本当に「共に喜ぶ」ことができないのが人間というものではないのか、というわけである。
 
実に厳しい指摘だが、私たち人間のすることというのは、いつもそんなにきれいなものではない。「シンパシー」できていたら、まだよい方だ、という見解も成り立つことがある。ただ、だからこそ、イエス・キリストに目を注ごう。イエスは、私の心の内に、来てくださっているではないか。イエス・キリストこそ、まことの意味で、共に喜び、共に泣くことが、できたお方である。それだけでも、よいではないか。
 
説教者は今日、幾度も幾度も、同じ言葉を繰り返していた。まるで絶唱のように、教会のための祈りを叫ぶようにしていた。教会が、そして一人ひとりが、このイエス・キリストの姿を映し出す存在であるように。

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