コロナ禍のサマリア人
ルカ10:25-37
欧米などでは法律の名前にまでなっている、善きサマリア人の譬え。つまり、窮地で善意から救護しようとした人の行いについて、うまくいかなかった場合にも責任を問われないとする法が制定されています。ただ果たして、イエスの言いたかったことが、このサマリア人の行為に集約されて然るべきかどうか、という問いも成り立つかもしれません。
瀕死のイスラエル人を見て、関わりたくないと反対側を通って避けて行ってしまった、イスラエルの宗教者である祭司やレビ人、これこそ人間の姿なのだと思い知ることが、私たちには必要とされているように思います。間違いなく私はそれです。そのため、前後に配された律法の専門家の存在が、ここで大きな意味をもっていると見ることができるでしょう。
それは、永遠の命を受け継ぐための条件を問うところから始まりました。隣人とは誰か、という問いを投げかけたのは、この人の方であって、イエスから持ちかけたのではありません。イエスは、問われてただ答えたのです。それで、この美しい、見事なまでに対照された譬え話が私たちにもたらされたということに、改めて驚きを覚えます。
この譬えは、人の側の問いから始まりました。助けたサマリア人こそ、その「隣人」であったといいます。イスラエル人は、サマリア人を軽蔑し、見下していました。偽の律法を解き、神を偶像的に礼拝している奴らは、もはや純粋なイスラエル人ではなく、混血のなれの果てではないか。しかし、そのサマリア人こそが、イスラエル人を助けたのでした。
さて、ここに私自身が登場しているのでしょうか。コロナ禍において、瀕死の重症者が日に日に増えています。目の前にその姿が見えないのは、その人たちが閉鎖環境にあるか、病院に送られているかするからです。同胞と言うべき市民の中に、連日苦しむ人が増えている。そして、その人たちを助ける職業としてのサマリア人たちが世にいます。
たとえば医療従事者がそうです。しかしイスラエル人がサマリア人を軽蔑し遠ざけていたように、私たちは医療従事者とその家族を差別すらします。いまこの情況で私たちが、誰が隣人となったかと問われ、行ってそのようにしなさいとイエスに命じられた、というような聞き方をするのでなければ、聖書は何のためにあるかということになりましょう。
ちょっと知っていればステイタスが上がり、教養があるように見られるとでも考え、聖書の言葉を口にすれば自分が誉められているかのように錯覚する、自称キリスト教徒すら世の中にはいます。読み外しもいいところですし、聖書をこのように自分の道具にするということは、神を自分に従えさせるという最悪の罪であると言われても仕方がないでしょう。
イエスと逆方向を向く、愚かな人間の姿を他山の石として、私たちは聖書に心して差し向かわなければなりません。さらに、この譬えは隣人をテーマとしていましたが、隣人を愛するに先立って、あなたの神である主を愛せよという律法があることを見落としてはなりません。そもそも私たちには、これが抜けていたのかもしれません。
私たちは、いえ私は、主を愛しているのでしょうか。私がひとを信用できずにふてくされている時にも、神は私を信頼して、十字架の家にぶら下がりながら、おまえが変わるのを信頼しているよ、と待っていてくれているのではないかという気がしてきます。瀕死の同胞ばかりか、それを助けたサマリア人をすら見捨てようとしている、この私のことを。
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