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楽しく厳しい説教

子どものための礼拝を別枠でつくるということは時折あることで、しかし年に何度か、子どもたちの礼拝も大人の礼拝も一緒に開く、ということも試みるのが普通である。私のいたある教会の場合は「合同礼拝」と呼んでいた。
 
ところがいまのこの教会は、驚くべきことに、主日には六つの礼拝式を行っているという。教会学校という部門を三つに分けて数えているためであるが、それでも、中心となる成人礼拝のほかに、それより早い時刻の礼拝と夕方の礼拝とがあるというので、牧師も多忙である。奉仕する方々にも頭が下がる。
 
それら六つの礼拝を、今日はひとつに集める礼拝ということで、「全体礼拝」と呼ばれるものになっていた。付属の幼稚園児が多数出席している。この3月に卒園する子どもたちが特に招かれているようで、全員というわけではないが、20人近くの子どもたちが賑やかに加わっていた。最後には、その歌声も聞くことができて、こちらまでうれしくなった。
 
さて、年齢幅が限界まで広いメンバーが出席した礼拝である。話し方や口調が変わるのはもちろんだが、大きく変更を余儀なくされるのは時間である。ふだんの大人の礼拝であったら40分を下ることのない牧師の説教は、当然短く切り上げなければならない。
 
教会学校であれば、小学生未満の子どもに対しては、5分という基準があると言われている。鍛えられた(?)幼稚園児であれば、それ以上も大丈夫だろうとは思っていたが、20分間、厭きさせない話を続けた説教者は、慣れているとはいえ、流石であった。学ぶことが多い。
 
たとえば、子どもたちは、何か言いたくてたまらない性質を帯びている。礼拝の中で者喋ってよい、とは大人は普通考えない。だが説教者は子どもたちに呼びかける。質問する。子どもたちは、当然のことのようにその質問を受け、応える。それをまた説教者が肯定し、次の段階に進んでゆく。まるでイエスの問答のようでもあるが、同時にまた、礼拝そのものの活きた構造がそこにある、ともいえる。礼拝は、神からのもの、それに応ずる人からのもの、これらが交互にプログラムされているのが通例である。だから、説教者と子どもたちとの応答は、まさにひとつの礼拝がそこに成立していることの証拠であるのだ。
 
説教の初めのところで、大人も子どもの礼拝に来たらいい、と語られていた。それは本当だと思う。その理由は「楽しいから」だそうだが、後から思い返して初めて気づくことでもある。伏線に気づけるように、ちょっとしたメモをとるのもいいし、後から編集された説教の動画を再び見るのもいい。ちゃんとそれは、仕掛けられていたのである。
 
さて、選ばれた聖書の言葉は、ルカ伝の最後のところである。子どもたちに示すにも、この2節という長さが確実である。それでも、そこからのみ解き明かすのではない。要するにイエスのことを全部話すのである。全部話すのではあるが、聞いた後に子どもたち――もちろんそこにいる人みんな――の心に、たった一つのイメージだけを遺すのが狙いであったと言えるだろう。
 
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
 
この様子を、両手を拡げて説教者は壇上で示す。これでもう、子どもたちの心にはこの姿がくっきりと刻まれる。クリスマスの話から、弟子たちとの旅に触れ、癒やしや奇蹟について触れ、十字架につけられたこと、その意味、そして復活したこと、これらを辿ってきた上で、両手を挙げていまもイエスが呼びかけていると語ったのだ。
 
「いまも」ということで、私たちの「いま」、それがなされていることを覚える。聞く者は、自分もその中にいることを知る。その「いま」は、この説教自体にも適用できること、そこに私たちは気づかねばならない。この説教もまた、イエスの祝福なのだ。神の言葉が語られているのだし、神の言葉が現実のものになる機会なのだ。
 
また、さりげなく、この「手を上げて祝福された」という訳語の不十分さを、誤解されないように印象づけることも成し遂げている。つまり、この「手」は複数なのであって、イエスはユダヤ人の祈りの普通のスタイルのように、両手を挙げて祝福していたのである。壇上説教者は、それを体現して、さりげなく伝えたことになる。子どもたちには、理屈はいらないから、そのゼスチュアだけで十分なのである。
 
これで話は終わらない。このイエスの昇天の後までも、物語は続く。弟子たちはこの後、世界中に旅に出たのだ、と説教者は語る。遠く離れたところに行っても、そこには同じ空がある。同じ天を見上げることができる。天を見上げるならば、いつでもどこでも、イエスに会えるというのだ。
 
さあ、大人は一人ひとり、貫かれてしまう。「いま」この神の言葉が語られていることを受け止め、自分の中でその言葉が現実となること、そしてそれはここにもイエスの昇っていった天が同じようにあること、それを「本当に分かっているのか」と突きつけられたことになる。その意味では、これは実に厳しい指摘を隠し持つ礼拝説教であったのだ。
 
いつしか自分の力に頼り、神からの声なしに何事もするようになっていたのではないか。そこにあの記事の中で両手を挙げて祝福したイエスが、いまも、まさにいまここで、私に祝福をすべく両手を挙げているという信仰が、事実となっているだろうか。
 
使徒言行録の流れに入ったとき、その使徒の働きの記録の中に、私たちも刻まれていることを、知らなければならない。「それぞれの新しい春を迎えましょう」と結んだ一言は、たんに新しい学び舎や職場、土地などのことをフィールドとして言っているのではない。両手を挙げて私に呼びかけるイエスの声を、聴きましょう、そういうことなのだ。
 
新しい福音を受け止めたなら、新しい歌で主に賛美を返そう。厳しい指摘を引き受けた私は、心の中で、次にはそのように喜んでいた。

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