見出し画像

語る者のことば

説教塾ブックレット。21世紀になってから、「説教塾紀要」の一部を一般に広く知ってもらうために、というような形で発行されたシリーズがある。その第11弾として、2012年に『まことの説教を求めて』が発行された。副題に「加藤常昭の説教論」と付いており、著者は藤原導夫牧師である。説教塾の一員であり、要でもある。
 
今回は、その書評のようなことをするつもりはない。ただ、そのごく一部から励まされた点を証ししようと考えている。
 
この本は、加藤常昭先生が説教についてどのように言っているか、それを明らかにしようとするものであって、著者の考えを述べるものではない。その中に、加藤先生が、「コトことば」と「理念ことば」を区別しているところがあった。(p30)
 
「コトことば」とは、「語る者の存在を貫き、その存在が響くような言葉」である。「理念ことば」は、「その存在から遊離し、説明的に語られるような言葉」である。これは、「政治的プロパガンダやコマーシャルなどに見られるもの」だという。説教がこの「理念ことば」で語られるとき、「神が語られるという出来事を担うことはできない」といい、「そのような言葉は聞き手の心に届くこともない」のだそうだ。「説教者が目指して語らなければならない言葉」は、「コトことば」の方である。
 
だから、問わねばならない。「その言葉がどれほど、内実ある真実なものとなっているのか。み言葉がどれほど真に説教者自身を貫き通している説教の言葉として獲得されているのか」と。
 
こうして、著者は、次のようにまとめてゆく。「説教者は自らが福音に生かされて歩んでいる現実を、その存在そのものをもって表現することが求められている」のであり、「説教者の内面やその実存につながりを持たないような上っ面だけの言葉は、説教の言葉に値しない」のである。(p32)
 
私自身、加藤先生の本にはずいぶんお世話になってきた、という経緯はある。だから、いつの間にかその考え方に教えられ、導かれてきたのだ、と言われれば、確かにそうかもしれない。だが、教えられたからそう思う、というのではなく、私自身は心から、説教は神の言葉であり、人を生かすものであるはずだ、という「信」がある。だから、ここに書かれてあることは、自分が書いたのではないか、と錯覚するくらいに、よく分かる。
 
またそれは、その「コトことば」による説教と、「理念ことば」による説教と、両方を聞き知っているからであるだろう、とも思う。その故に敢えて付け加えるならば、「内実ある真実なもの」とか「説教者自身を貫き通している」とかいうものがない説教をする人物が何故語れないのか、という理由が、私には見えている。つまりは、それを知らないからである。知っていて口をつぐむようなことを、説教壇でする人はいない。救いの経験がないのである。さらに言えば、その救いの前提となる、自分の罪ということを知らないのだ。そんな人の「説教」が毎度繰り返されるような教会の礼拝へなど、恥ずかしくてとても誰かを誘ったり薦めたりすることはできない。
 
どうぞ、聴く側の信徒の方々は、毎週聴いているその説教が、どちらの「ことば」によるものであるか、冷静に判断して戴きたい。それは、教会が教会でなくなってゆくことを防ぐことになるかもしれないし、あなた自身の魂と命にも関わることになるかもしれない。信仰や命などどうでもよいことであって、いまだけ楽しい仲良し倶楽部を遊んでいるだけでよいような方には、もちろんお節介はしないのであるが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?