子どもたちの眼差し
フェアトレードについての説明文を読む。小学三年生の国語としては、内容が高度である。そもそもそのテキストは塾用であるのは当然としても、かなりレベルが高い。
一度本文を私が朗読してから、「さあ解いてみよう」といくことが多いのだが、この内容はそのまま解かせるのは難しいと思った。答えが分からない、という心配ではない。言葉だけを探せば、解答欄に文字を埋めるのは、器用な子ならばかなりできるだろう。しかし、文章の内容について、知ってほしいと思ったのだ。
文章の内容を詳細をここでお伝えすることはできないが、要旨としては、フェアトレードというものがあり、世界で安い賃金で働く人たちへ適切な労働報酬をもたらすために、私たちは「安い」ことだけを求めるべきではない、というものだった。
私は、海外の子どもたちの勤労情況について話をした。学校に行くことができず、働かなければ生活ができない、そうした子どもたちの様子は、三年生にも想像しやすかったのではないかと思う。こうした子どもたちの労働は、200年前ではヨーロッパ先進国でもよくあることだったと言われる。もちろんその前の時代はなおさらである。そもそも「子ども」という概念がつくられた歴史そのものが新しい点に、私たちは気づかなければならない。
私の説明を、子どもたちは静かに聞いてくれた。多分に、驚きの眼差しで、息を呑んで聞いていた。休み時間はともかく、授業中も茶々を入れることの多い賑やかな子も、じっと聞いている。
その真剣な姿勢を、私はうれしく思った。小中学校の国語は道徳だという捉え方があるが、言語活動を通して、様々な思想に触れる機会は大切だと思う。それが、高校生ともなると、批判的な目がどうしても必要になってくるが、義務教育の間は、たとえ建前や体裁のように見えたとしても、真摯に考えるべき問題について、ひとつの型を提供する必要があると考える。押しつけるのではない。共に考えたいということだ。
国際会議(COP28総会)の壇上に現れた、12歳の少女は、「化石燃料をやめて。この星と未来を守って」というプラカードを掲げていた。「インドのグレタ・トゥーンベリ」と呼ぶのも気の毒なほど、このリシプリヤ・カングジャムという少女の声は、独自に強いものだった。「環境活動家」とも呼ばれるが、子どもたちにとり、やがていなくなる無責任な大人たちの態度は我慢がならない、というのは当然である。経済という名の弁明では、この星も未来も犠牲にすることしかできないであろう。
さすがに警備員の手により退出させられた少女であったが、現場の大人たちは慌てずに様子を見守り、拍手を送ったのはよかった。ただ、それがもし大人としての形式的な対応であったとなれば残念でもある。
私も、当然その環境を破壊している一人である。そうした見方は、自分がローティーンの頃に書いた作文から、さほど変化していないのかもしれない。ただ、あのころはやはり大人への疑念が強かった。いま、私はその大人の側にいる。もはや、次の世代に託さねばならない情況となった。それはやはり無責任であるのかもしれないが、子どもたちに真摯な問いができるような気づきをもたらすことは、せめてできるかもしれない、と考えている。
教会学校も長い間担ってきた。子どもたちには、その都度真摯に語った。自分への痛みを覚えつつも、話した。教えこむのではない。教え諭すのでもない。共にいまここにいる人間同士として、共に問うべきことを見つけ出そうとした。子どもたちにも、その気持ちは伝わったのではないかと思う。建前や看板としての綺麗事を話しても、子どもたちは見抜いてしまう。教会でもそんな風景を見ることがあった。そこには、真剣な眼差しが向くことはなかった。
国語であれ何であれ、子どもたちのあの眼差しは、私自身へのチャレンジでもある。子どもたちへ問いを向け、聞く姿勢として、あるいは疑問や反論として、返答をまともに受ける。ひとつの戦いが起こる。そうした戦いなら、大いに結構なのではないか。否、必要なのではないか。
こうして子どもたちに教え、それ以上にまた教えられ、形式的ではない問いを繰り返すことは、大切なことであると思っている。未来を生きる彼らを、突き放すわけにはゆかない。
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