暑さから守られる (イザヤ25:1-10, 黙示録7:11-17)
◆行く夏の中で
暑い夏でした。短い梅雨の後、夏休みの時期に入る前から、猛暑と呼ぶに相応しい暑さがやってきました。地域によっては異なるかと思いますが、そのために健康被害があったり、大雨と洪水の被害に遭ったりした方もいます。お見舞いの気持ちを申し上げます。中には、民家で汗を流して、という教会もありますから一概には言えませんが、教会の礼拝は、概ね冷房の効いた場所で過ごすことができていたのではないでしょうか。
京都の夏が終わりました。8月16日、五山の送り火で、京都の夏も送ることになります。もちろん残暑はあります。盆地の京都の夏の暑さは半端ありません。それでも、送り火によって、気持ちの中ではひとつ区切りをつけるものです。尤も、一週間後の地蔵盆で夏に見切りを付ける、という方が実情に合っているかもしれません。
京都の夏は、7月17日の山鉾巡行でクライマックスを迎える先祭としての祇園祭に始まる、と普通口にされます。京都の夏は、祇園祭に始まり、五山送り火で終わる、というのがほぼ合言葉になっています。
すみません。もう暑い夏はピークを超えたと言えるでしょうか。だとしたら、いまになって暑さを話題にし、どうかお体を大切に、のような気持ちをお伝えするのは、ずいぶんと間の抜けた話です。しかし、どうやらそうでもない様子。危険な暑さと闘いながら、いましばらく、お付き合いください。
この「暑さ」というのを、いまの私たちは殆どすべて、「気温」という「数字」によって計ります。我が身の感覚で暑さを知ることなく、発表された気温の数字を信じ切っているから、熱中症や子どもの事故が後を絶ちません。環境は人により、場所により違うのです。自分の感覚のほうを信じていくべきことは、世の中にはたくさんあるのです。
気象庁発表の気温の数字は、特定の場所における計測に基づきます。しかも、どのような条件で計っているか、むしろ小学生のほうがよく知っているかもしれません。さすがにいまは「百葉箱」を気象庁は使いません。小学校からも、消え続けているといいます。電気式温度計を用いますが、それでも、百葉箱について学ぶ基本は同じです。つまり、風通しが良く、陽当たりも良いのだけれども、必ず日陰で計ります。直射日光は当てません。そして、地表から1.5mの高さです。地表近くだと、まともに地面の温度を受けてしまうからです。
従って、陽の当たる場所では、あの発表された気温よりもさらに高いはずだ、ということになります。実際京都では、街中に掲げられた温度表示は、昔でも40℃くらいになることがありました。いまは軽く超えているのではないでしょうか。
さらに気をつけるのは、小さな子どもです。子どもは体温調節能力が異なると共に、大人よりも地表から近い位置にいます。大人が感じるよりも、もっと高温を浴びていることになります。ベビーカーの中の子は、とてつもなく悪条件にあることになります。
◆雨と暑さ
夏は、暑さも厳しいのですが、日本は湿度が高いという難点をもっています。汗腺からの水分の蒸発が妨げられるため、体温を下げる調節が間に合わなくなるのです。熱中症をもたらす大きな要因となります。もちろん、汗腺機能の未熟さのある子どもにとっては、この条件はさらに重くな影響する場合があります。とにかく小さな子どもには、気をつける必要がある、ということです。
暑さも厳しいけれども、近年とみに盛んに言われるようになった、「線状降水帯」というものは怖いものです。自然環境の変化により、かつては見られなかった形での雨の降り方があると共に、従来の雨のつもりで都市計画を推進してきた結果、それ以上の豪雨に耐えられなくなった、という問題もあろうかと思います。
その意味では、天気予報や都市機能の発達した現代が、古代よりも安全、とは言えない側面もあるかもしれません。人々は、自然の猛威の背後に、神の力を感じていたことでしょう。また、科学的な気象の説明ができない知識体系の中では、自然現象は神の業だ、というように説明することでしか対処できなかったこともあろうかと思います。
自然災害により、古代都市が、古代帝国が、大打撃を受けることもあったでしょう。国同士の戦いがあったら、都市も破壊されたわけです。広大な領土と軍事力を誇った帝国も、荒廃するに任せることになります。イスラエルの人々は、周辺諸国のそうした姿に、神の力、神の裁きを覚えたに違いありません。イザヤ書25章を今日中心に据えました。最初からもう一度お読みしましょう。
1:主よ、あなたは私の神。/私はあなたを崇め/あなたの名をほめたたえよう。/あなたははるか昔の驚くべき計画を/忠実に、誠実に成し遂げられた。
2:あなたは都を瓦礫の山に変え/城壁に囲まれた町を廃虚に変えられた。/他国人の城郭は都から取り去られ/とこしえに築き直されることはない。
神はイスラエルを愛していてくださる。だからイスラエルの敵となる国々を、いつまでも栄えさせることはない。そして破壊されたその都市は、再び繁栄するようなことはなくなるのだ。
3:それゆえ、強い民はあなたを敬い/横暴な国々の町もあなたを畏れる。
4:まさに、あなたは弱い者の砦/苦難の中にある貧しい者の砦/豪雨を避ける逃れ場/暑さを避ける日陰となられる。
イスラエルの神は、他の強国を無に帰します。他方、イスラエルという民族が築く国は、弱いものです。弱小すぎて、帝国からすれば比較の対象にもなりません。しかし、主がイスラエルの砦となってくださいます。ここにある言葉からまとめると、イスラエルは「弱い者」であり、「苦難の中にある」のであり、「貧しい者」でしかありません。
そして、この主なる神は、防ぎようがない「豪雨を避ける逃れ場」です。また、「暑さを避ける日陰」だというのです。現代でもなかなか避けられない豪雨や暑さに対して、昔のこの時代にあって、そこから自分たちを守る者を神だとしている点を、よく押さえておきたいと思います。
◆イスラエルの自然災害
本当は、ここでイスラエルという風土における「自然災害」について、何かお話しできればよいのです。しかし、現地を訪ねたことのない私には、何のお知らせする経験もありません。受け売りで語ることは、できないこともありませんが、伝聞にしか過ぎませんし、正しい情報をお伝えできるかどうか、自信がありません。
ただ、ガザでは今年4月に、44度を記録したというニュースがありました。これは、多少その地で慣れた人であっても、耐えられません。しかも、テント生活や冷房などのない環境では、私たちすら体験できないレベルの状態になっているのかもしれません。
また、日本ほどの雨量がないイスラエルであっても、地盤や川の存在、排水設備などの点で条件が確実に異なります。詩編だけでも、「大水」という訳語が入る節は14節あるのですが、これは線状降水帯ほどの力がなくても、起こり得ることではないかと想像します。大水に死にそうな中で助けてください、という叫びも多々あるわけです。
大水とは限りませんが、詩編には、そうした自然との闘いの中から生まれた言葉もあります。その中で、主なる神と自分との関係に立つようになっています。解説をするつもりはありません。味わってください。詩編121編です。
1:都に上る歌。/私は山々に向かって目を上げる。/私の助けはどこから来るのか。
2:私の助けは主のもとから/天と地を造られた方のもとから。
3:主があなたの足をよろめかせることがないように。/あなたを守る方がまどろむことがないように。
4:見よ、イスラエルを守る方は/まどろみもせず、眠ることもない。
5:主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
6:昼、太陽があなたを打つことはなく/夜、月があなたを打つこともない。
7:主はあらゆる災いからあなたを守り/あなたの魂を守ってくださる。
8:主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。/今より、とこしえに。
マスコミがセンセーショナルに、注目される言葉を蒔いていきます。「異常気象」という用語は、気象庁が用いる分には構わないのですが、常套文句のように報道が宣伝してしまうと、人々の意識がコントロールされてしまいます。そのように言われる「異常」というものは、もはや私たちの時代の「普通」となっているのです。もはや「異常」は、すっかり「日常」となっており、「異常」という言葉が、意味を失って喘いでいるのです。
◆覆われていたものが
イザヤ書25章はこの気象現象と国の動きの次に、不思議な祝宴の様子を描きます。
6:万軍の主はこの山で/すべての民のために祝宴を催される。/それは脂の乗った肉の祝宴/熟成したぶどう酒の祝宴。/髄の多い脂身と/よく濾されて熟成したぶどう酒。
どうも、当時の宴会の賑やかな姿を表しているようです。脂滴る肉、完熟ぶどうの酒、ご馳走だったことでしょう。
7:主はこの山で/すべての民の顔を覆うベールと/すべての国民にかぶせられている覆いを破り
8:死を永遠に呑み込んでくださる。/主なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。/確かに、主は語られた。
そして注目したい情景です。すべての民の顔は、それまでベールで覆われていましたが、いまここでそのベールが破られます。「覆い」とも呼ばれています。この「覆い」を取り除くというフレーズは、聖書の中で少しばかり引っかかりをもつべきものだと考えられます。
これはギリシア語の構成ですが、「覆いを取り除く」という意味の言葉からできた語が、ギリシア人の「真理」概念であるのです。しかしそれとは無関係にでも、旧約聖書の世界から、本当のものが、覆いを取り除くことにより現れる、という発想は大切にされていたように思われます。
ここでは、第二コリント書3章を引用します。パウロが、コリント教会の人たちから不信感を浴びていたところへ、その使命を明らかにします。
12:このような希望を抱いているので、私たちは堂々と振る舞い、
13:モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。
14:彼らの心はかたくなにされたのです。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが除かれずに掛かったままです。それはキリストにあって取り除かれるものだからです。
15:実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
16:しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。
いったい、何が覆われていたのでしょう。何に掛けられていた覆いが取り除かれるのでしょう。「真理」そのものでしょうか。それもそうです。しかし、私たち人間は、「罪」を隠し持っています。罪は、神の前にもたらされてはいけないものです。このことに触れた聖書の言葉は幾つかありますが、二つだけお読みします。
幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。(詩編32:1)
何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。(ペトロ一4:8)
罪をそのまま、神の前に明らかにされてはなりません。確実に有罪判決が出されます。ところが、この罪を覆った方がいます。イエス・キリストです。キリストは、罪を覆い、そしてキリストの真実を示したのです。私の罪を覆った形で、血みどろのキリストが、この者は無罪なのだ、と裁く神の前に弁護をしてくださったのです。
◆天上の礼拝
新約聖書の最後に、「黙示録」というものがあります。内容がおぞましい、と敬遠する方もいるかもしれません。ただ、この「黙示」という言葉については、この際注目しておかなくてはなりません。というのは、それは「隠れていたものを露わにする」という言葉だからです。いま見てきた、まさに「覆いを取り除く」構図と同じものがタイトルに付せられているのです。また、聖書で他に「啓示」という言葉がありますが、これも全く同じ語を、別の日本語で訳出しているに過ぎません。イエス・キリストが、あの時代に満を持して登場し、救いの道を拓いてくださったことが、ひとつの「啓示」です。そしてそれは、「隠れていたものを明らかにする」ことだったのです。
その黙示録の中に、敬遠などしてはならない、希望の情景があります。ごちゃごちゃよけいなことは申しません。ぜひ、一度ゆっくり味わっておくことにしましょう。それは、天上の礼拝の様子です。私たちが、そこへと希望を有している、永遠の神の国の幻です。ここで聖書箇所としてお開きした7章から、その半分だけをお読みします。
11:また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
12:こう言った。/「アーメン。賛美、栄光、知恵/感謝、誉れ、力、権威が/世々限りなく私たちの神にありますように/アーメン。」
天上の礼拝の様子が、目に浮かぶようです。そこでは神を礼拝して、疲れることなくいつも、いつまでも、歌うのです。「こう言った」と書かれていますが、きっとそれは歌のはずです。神を賛美する歌を、歌い続ける神の民の姿なのだと思います。
13:すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14:そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
白い衣は、不思議な衣です。血で洗ったのに、真白なのです。そう、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって、私たちの罪は白くされます。白日の下にさらされ、輝きます。自分ではどうしようもなかった自分の罪ですが、キリストの血によってのみ、それは洗われ、清められるのです。
それは、イエスの血により救われた者たちが集まる宴会です。こうして、永遠の喜びの礼拝が繰り広げられるというのです。
◆祝宴の恵み
お開きしたイザヤ書の描写も、そこに重ねることにしましょう。聖書はそこかしこに、希望があり、喜びが描かれます。それらはひとつにつながります。イザヤ書25章を、今日はつないでみます。
8:死を永遠に呑み込んでくださる。/主なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。/確かに、主は語られた。
9:その日には、人は言う。/見よ、この方こそ私たちの神。/私たちはこの方を待ち望んでいた。/この方は私たちを救ってくださる。/この方こそ私たちが待ち望んでいた主。/その救いに喜び躍ろう。
10:主の手はこの山にとどまる。
そこには「死」がありません。確かに「涙」はありました。悲しいことにひとつも出会わなかった、ということはないのです。私たちは、たくさんの悲しみを経験します。悲しみばかりに包まれる人もいようかと思います。でも、神が私たちの頬を濡らすその涙を、拭ってくださる、というのです。その涙のことを、神はご存じなのです。
聖書の神は、そのようなお方です。私たちがどうあろうと、私たちが待ち望む思いをもつ限り、必ずや救ってくださるお方なのです。この方こそ私たちの神です。与えてくださるその救いを、喜ぼうではありませんか。喜び躍ろうではありませんか。そして、その続きです。
15:それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて/昼も夜も神殿で神に仕える。/玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。
16:彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。
17:玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである。」
飢え渇きがない、という良い知らせに並んで、「太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない」と伝えてきました。やはり、暑さは厳しいのです。ひとは神の国で喜び祝うそのときに、暑さにやられることはないというのです。
さらに、小羊イエスがいまや牧者となり、私たちがそれに導かれる羊となります。イエスがリーダーです。牧者は命の水の泉へ私たちを導きます。潤いと憩いの汀に、私たちは連れて行かれます。さあ、ここには水がある。活ける水があるのだ、と。
そして、神は私たちの目から涙を拭ってくださいます。再び涙が拭われます。どんなに私たちは涙を流したことでしょう。自分の辛い経験はもちろんのこと、私たちが誰かを傷つけたこと、悪を選択して悪しきことをこの手でやってしまったこと、思いの中で神に背き、あるいは裏切ってしまったこと、つまり自分が罪に染まっていたこと、それを涙しなかった人は、この恵みの席にはひとりもいません。己れに対して流した涙すら、赦しの神は、拭ってくださるということです。
◆つながる聖書
書かれた時間を考慮するなら、黙示録の記者は、イザヤ書よりもずっと後の人です。イザヤ書を知っています。いまの時代のように、聖書を手軽に持ち歩けるわけではなかったにせよ、聖書をそうとうに知っているわけで、イザヤ書を縦横に引用できる人であっただろうと思われます。
イザヤ書の中に、黙示録が示したかった世の終わりと、新しい天と地とを描くために参考になることが、多々あったことでしょう。そのとき、イザヤ書の記者にも、黙示録の記者にも、同じ霊が働いていたに違いありません。同じ神の霊が、同じ幻を見せていたような気がしてなりません。
聖書は、だから縦横につながります。どこからでも、同じ霊の働きによって、つながります。神学者や研究者の手によって、そのつながりが見出されることもありました。在野の信徒の祈りの中に、気づかされることもあったでしょう。まだ私たちが気づいていないつながりも、無数にあるはずです。祈り求めながら、聖書を読むのです。その中で、私たちにおいて、新たにつながる道筋も、きっと見つかることでしょう。
行く夏と言いながら、まだまだ暑さが厳しい中で、今日はその「暑さ」というイメージを頼りに、ひとつのつながりに気づくことができました。
聖書の光は、それまで見えなかったものを見せてくれます。気づいていなかったことに、気づかせてくれます。聖書の光の中で、いままたひとつだけでも、握らせて戴きましょう。
あなたは弱い、そして苦難があり、貧しい。「それにも拘らず」恵みがある、という言い方は、ひとつ決めつけすぎである気がします。「それで」あるいは「だから」と言いましょう。人間の立場や論理に基づくものではありません。事は神の論理です。私たちが弱いから、苦しいから、貧しいから、だから、神は私を助けます。私は神に救われます。どんな豪雨からも、暑さからも、神はあなたを助け、救い出すと約束しているのです。
この約束を握りしめて、残りの暑さにも、負けない生き方を新たに与えられ続けようではありませんか。
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