他人事ではない
列王記下24:1-4
ユダの王ヨヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。これは主の命令によるものである。それはユダの王が主を信じず、人々を虐げていたからである。粗筋を示すと、これだけの説明で終わってしまいます。けれども、口先でこう説明するのとその内実とは、隔絶されたものであるかと思います。
王が虐げた正しき人々の血が、いったいどれほどあったのでしょう。また、バビロン王により、どれだけのユダヤ人の地が流されたのでしょう。たぶん私たちの想像を超えているのだと思います。列王記の記録は素っ気ないけれども、数多くの政治的背景を含んでいます。それを解説することも大切でしょうが、それはただの歴史的事件ではありません。
少なくとも、そう受け止めることができるはずの出来事なのであり、私たち現代人にまで迫ってくる物語であるのです。これは「主の命令によるもの」である、ということを弁えているでしょうか。しかも、それは預言者を通して告げ知らされていたものです。つねに人の前に主が立ち現れるのではありませんが、主は僕たる預言者は確かにいました。
説教者は、この預言者たらねばならないはずです。畏るべき言葉の影に潜むものを、知っているからです。目の前にあるものの向こうに、確かにあるというものを、人はなかなか覚ることができないから、見えないものを知る預言者が、それを知らせなければならないのです。主が何故敵部隊を寄越すのか、とひとは自分本位の理屈を呟くかもしれません。
主が何故主の民ユダをこれほどまでに叩くのか、不条理だ、などという手前勝手な理論を述べるひとがいるかもしれません。そんなことがあるのかと、傍から優越した正義感を伴って正論をかますかもしれません。どうしてそんなに客観視しかできないのでしょう。これは昔々のお話なのでしょうか。無実のイエスの血を流したのは自分だと思いませんか。
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