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心を包むものを割る

申命記10:12-22 
 
イスラエルよ。名を呼び告げられるのは、いま「主があなたがたに求めておられること」でした。主を畏れ、愛し、仕えること。それで終わりではありません。戒めを守ることも、まだです。「あなたが幸せになること」なのでした。主はイスラエルを愛しました。今日のように、選ばれたのです。申命記はこの「幸せ」をモチーフに時折語ります。
 
モーセがそうだった、というよりも、宗教改革の時代のモットーであったように思われます。平和であれ、幸せであれ、何もしないでのほほんと与えられるものとして見てはならないでしょう。敵との戦いもあるでしょうし、自分との戦いも必要でしょう。と言いつつ、このことから「心の包皮に割礼を施」すように、と命じられていることに注目します。
 
「心に」ではなく、心を包んでいるものを割るのです。肉体の割礼も、誓いで股に手を入れることと関係があるのかもしれません。男の本心や本質を以てつながる、ということになるのでしょうか。だからここでも、主と本心とがつながるようにするイメージを受けることができます。この主は、弱い者に目をかけ、守ってくださる方として描かれます。
 
小さなイスラエル民族を愛した、というのは、凡そ世界の創造者には似つかわしくないことだったかもしれません。しかし、それがやがて全人類に拡がってゆきます。人類のごく一部における真実があってこそ、普遍的なものへとなってゆくものだと気づくことができます。エジプトに逃れた70人に対する真実が、星の数よりも多くなるのです。
 
星の数がせいぜい人の数程度だと低く見積もられていた、というよりも、無数に子孫が増える祝福です。この主からの助けは、賄賂だの孤児だの寄留者へのパンや衣服だの、非常に具体的に示されています。寄留者を我が事として愛せ、という強調も目立ちます。主に仕え、従い、名によって誓う、これがそういうことなのです。

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