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ごめんなさい

とりあえず謝る。日本人はすぐにそうするが、こういうのを西洋でやると負けだ、などという俗説がある。しばしば聞くのは、決してそんなことはない、という声である。ジェントルパーソンは、礼儀正しいのがあたりまえであるのだとか。いや、これは無責任な、また聞き。
 
クリスチャンは、要するに、神さまに「ごめんなさい」を言った人、というのが子どもたちに対して話すときの基本ではないだろうか。これを大人がすっかり忘れてしまっているのがもどかしい。いやはや、私もその大人。
 
さすがにクリスチャンとしては、「ごめんなさい」は口に出す勇気はいくらか持ち合わせている。しかし、その後に「でも」が付くことがしばしば。「ごめんなさい。でも、これは自分のためではないのです」のような、美談めいた理由を付け加えるのも日常茶飯事。ありがちな情景である。
 
これが、実はまずい。「ごめんなさい。でも」に続くものは、「自分を許せ」というメッセージであるし、さらに言えば、「自分は実は正しい」という訴えだからだ。つまり、「ごめんなさい。でも」は、「自己義認」なのである。自分で自分を正しいと見なしてしまう、あるいは正しいと見なせと要求する言葉なのである。
 
「どうして妹を殺したのか」「ごめんなさい。でも、妹さんが私をバカにしたのです」などという会話が現実にあるかどうかは分からないが、「ごめんなさい」に続く言葉で、被害者を貶め、自分を正当化し、そして遺族の心の傷に塩を塗り込んでいるというということは、理解しやすいであろう。こう言われて「ああ、なるほど」と返答する遺族はいないと思われる。
 
とりあえず謝る、ということが重要なのではない。謝ったような言葉を出しておいて、「でも」が続くとき、むしろそれは謝罪でも何でもなく、謝罪しているかのように見せかけるだけの詐称であるというふうに、相手からは見えるのである。「ごめんなさい」は、相手に許しを要求する言葉ではない。許されるかどうかは相手次第だという大前提があるはずだ。許しをお願いするのならまだよいが、許すのが当然でしょう、と迫るような言い方をすれば、それはもう「ごめんなさい」どころのものではなく、悪質なものとなる。
 
もちろん、悪意を以てしたのでない時に、許しを乞うことがけしからんというつもりはない。私自身、無数の許しによって生かされてきた。失礼なこと、傷つけたこと、図に乗って(この言葉は元々巧みで素晴らしいことを意味する仏教の用語だった)迷惑をかけたこと、思い返せば黒歴史がいくらでも押し寄せてくる。恥ずかしくて、申し訳なくて、死にたくなるほどである。人々に許されてこなかったら、一日も生きていられなかったはずである。あるいは、神の赦しを知らなかった、とも言えようか。
 
ただ、小学校の先生の教えというのは偉大なもので、あるとき、私を含む数人が休み時間から戻るのが遅れたときのことは、いまも忘れられない。ある子が、遅れた理由をまず説明したところ、先生は、まずは遅れたという事実を詫びること、そこから始めることを教えた。これはけっこう、私の原点になっている。もちろん言い訳はかなりするし、許されるような狡く立ち回ることもあるが、言い訳をぐっと呑み込むということがままあるということに嘘はない。
 
しかし、上に述べてきたように、「ごめんなさい」の後に出てくる説明が、実は自己義認であるというところまで問われたのは、やはり聖書の神との出会いに基づくものである。出会ったときには、「ごめんなさい」の後には、全く何もなかった。「ごめんなさい」、ただそれだけだった。そしてそのとき、救いがあったのだ。

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