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礼拝説教の務めのひとつ

礼拝説教とは何だろうか。信仰の仕方は人それぞれでもあるし、最近は「多様性」をやたら強調する教会も現れてきた。
 
しかし、礼拝説教の場で、聖書翻訳の言葉がけしからん、というような説明をしきりにするというのは、明らかに錯誤しているとしか評しようがない。それを聞いて、私たちは一週間(あるいはもっと長きにわたって)、何を以て神の言葉を受け、神の言葉がここに実現していくという経験をすることができるのだろうか。
 
言語を他の言語に移すのが翻訳であるとする。翻訳は、基本的に、一対一対応のように、ひとつの言葉で示すことを義務づけられる。『詳訳聖書』のように、本文の中に括弧付けで多義を伝えようとするものもあるし、以前から新改訳聖書がしているように、欄外注で別訳や直訳という表示によって、別の言葉を提供することもある。聖書協会共同訳で、日本聖書協会もそれを近年用いた。フランシスコ会訳は殆ど解説と呼んでよいようなものを左頁に加えている。
 
しょせんこれで完全などという決定的なひとつの訳語が不可能であるが故の労苦である。仕方がないのだ。正にそれこそが「多様性」のなせる業であるのだ。聖書のこの翻訳が適切でない、ということを指摘すること自体は、次の翻訳のためにも有用であると考えるが、それをあげつらうような真似をすることは、お門違いではないだろうか。私に言わせれば、自分は正しい、と言いたいがための醜い言動であるようにしか考えられない。
 
むしろ、説教者は、「聖書にはこういう訳がしてあり、それにもそれなりの考えによってなされたことなのだが、他にも訳の可能性がある。その背後には、神のこのような配慮があり、救いのメッセージがあるのだ」ということを、壇上で語るのが仕事なのではないだろうか。神はあなたを愛している。勇気を出しなさい。いまがどうであれ、あなたは神に支えられているし、導かれている。ただ、そのためには、あなたは神の前に頭を垂れなければならない前提がある。そして、神の救いの業に感謝し、称えよう。共に、この神のもとに集い、従おうではないか。――そのようなことを語るところに、礼拝説教というものの筋道があるものと私は捉えている。
 
もしただ独りで聖書を読んでいたら、気づかないこと、勘違いを突き進むかもしれないこと、それを礼拝説教は明らかにしてくれるであろう。それはもちろん、「聖書に書いてある意味はこれこれである」と決めつけるためのものではない。聴く者は、その説き明かしを通じて、それぞれに示されるものがある。語る側さえ予想もしなかったような仕方で、聖霊は聴く者に語りかける。そして、気づかされる。神と自分との関係を新たな側面で知る。こうして、信ずる者が神の言葉により生かされ、信仰を強くしていくものだろう。
 
不可能な一語訳を要求し、挙句自分の解釈を唯一正しいかのように語るというのは、人間的な研究発表の場であれば、それなりの役割を果たすかもしれない行為であるが、神を礼拝する場においては、あってはならないことなのである。

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