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良心と祝福

ヘブライ13:18-22 
 
「私たちは、正しい良心を持っていると確信して」いる、と言いました。正しい良心とは何か、と問うよりも、良心をもっていることを否定された可能性を想像してみたいと思います。キリストを掲げるグループは、「兄弟」と呼び合って怪しまれたかもしれません。聖餐を、肉を食し血を飲むと誤解され、怪しい噂を立てられてもいたでしょう。
 
当時の社会道徳からすると、キリスト教会の人々の生活は、不道徳であり非常識に見えたことでしょう。今でも新興宗教は、隠れて妙なことをしているという目で見られがちです。社会常識に合わないことは、不正義とみられます。キリスト教徒たちもこのとき、そのために、自分は「正しい良心を持っている」と言いたかったのかもしれません。
 
「何事においても正しく振る舞いたいと思っています」と、遠慮がちなのか、弱気なのか、はっきりしないような言い方ですが、ローマ帝国の支配する世で、あるいはユダヤ教側から激しい非難を浴びせられる中で、そうした当時の人々の認識においても「正しい」と見られるような生き方をしていると認められたかった、ということでしょうか。
 
いまあなたがたから離れているが、そこからメッセージを届けるというのです。ユダヤ人としての常識の中で暮らす仲間たちに、ユダヤの道徳や習慣にも合うキリストの弟子の生き方とその信仰を、ここまでたっぷりと話してきました。そのすべてを結ぼうとする中で、「手短に書いた」というのは耳を疑いますが、まだまだ言い足りなかったのでしょう。
 
ここに祝祷として、いまもなお語り継がれるフレーズが現れます。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス」で始まるあの祝福です。神は「平和の神」だといいます。神の御心の成る歴史に、キリスト者は協力者として加わりましょう。「すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」との祈りを、毎礼拝受けているのですから。

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