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人と神との織りなす歴史

詩編78:12-31 
 
「しかし、彼らは」神に背を向けました。そもそもイスラエルは、神に導かれ、恵みを受けて来たのです。ここには出エジプトの歴史から語られます。詩人は歴史を丁寧に辿り、如何に神が民を愛しく導いてきたかを描きますが、人々は神に逆らいます。神に背きます。つまり、それを「罪」と呼ぶのが、聖書の聖書らしいスタンスでありました。
 
「しかし、神は」がこれに応答されてきます。こういうふうに逆らわれながらも、神はまた、イスラエルを愛します。まずは赦しから入るのですが、その赦しを逆手に、人々は図に乗るため、神も憤りを表わすことがありましたが、「しかし、神は」恵みを注ぎます。それがあってなお、「しかし、彼らは」また不平を言い、逆らいます。
 
この繰り返しが、神とイスラエルとの歴史でした。そのうちの一部だけをここでは拾っています。エジプトを脱出できたのも、神の業。しかし、彼らは「己の欲のために食べ物を求め、心の内に神を試み」たのでした。神がこの荒れ野で食べ物を与えることが、どうしてできようか。水は岩から出たからしれないが、パンと肉はどうするのか。
 
彼らはこう言って逆らいました。神を信じません。神の救いを頼みとしません。このことに、神は憤りました。しかし、神はマナを天から降らせて与えます。神が恵むパンです。人々は満ち足りました。うずらの肉をも与えました。人々はさらに満ち足りました。人間の欲望を、神は十分に満足させてやりました。特に諫めはしませんでした。
 
だが、神の怒りは、その肉がまだ彼らの歯の間にある内に、燃え上がります。彼らは災いに打たれました(民数記11章)。詩人アサフは、この災いに打たれたのは若者たちである、と解して記しています。民数記のほうの記録では、その点は不明です。こうした主の罰にも拘わらず、彼らは神に逆らいます。が、神に従おうとする動きもありました。
 
人と神との織りなす歴史劇は、幾度も対立し、そしてまたその都度和解することを繰り返します。やがてこの詩は、ダビデに至ります。そこでひとまず落ち着いたようにも見えます。けれども、実はこのダビデからの歴史こそが、実は荒れ狂うものでした。歴史はまだ大団円とはなりません。やがてイエスが現れ、そして今に至っているのです。

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