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イエスを求める信仰

アモス8:9-12 
 
アモスは幻を与えられ、この世の不正と乱れが破滅の契機となっていることを明らかにします。こんな世の中はどうかしている。神がそのままにしておくはずがない。だから必ず「その日」が来る。もうその日になってからは、後戻りはできません。過去のあの時のことを、なかったことにすることなど、できないのです。
 
その日、太陽でさえ尋常ではなくなってしまいます。白昼に太陽は沈み、地は闇となります。あるはずの光が失せるのです。まだ光があるはずでした。あるつもりでした。それは、信仰があるつもりだった、と言っているようなものです。自分では信仰があるつもりでした。だから喜び、祭りを行っていました。楽しく歌っていたのです。
 
全くこれらの情景は、他人事ではありません。楽しい気分は絶望に陥り、慶事は喪に転じます。独り子を亡くしたような喪です。これはまるで、神自身が請け合ったようなものです。神はあの日、独り子イエスを亡くしました。太陽は隠れ、嘆く一部の人々が喪に服しました。苦しみの日となり、過越祭が喪の中に始まりました。
 
これは、神が自らつくった仕打ちなのでした。弟子たちは、飢えてしまいました。主の言葉を聞くことができなくなりました。それでも、弟子たちは集まっていました。隠れていたに過ぎないかもしれませんが、散らずにひとつになっていました。復活のイエスを見た女たちが集まっていたところに報告に行った、と聖書は証言しているのです。
 
人々は主の言葉を求めてさまよい歩きます。でも見い出せません。アモスが、イスラエルの中で、人々がそうなる、と言ったまでのことです。パンや水を求めずして主の言葉を求めようとしたことは、まだ本当の命の源へ関心がある、ということを示しているのかもしれません。福音書から私たちもまた、これを求めているかどうか、吟味すべきです。

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