見出し画像

十字架への道 (結) (ルカ23:26-49)

◆自分のために泣け

一年中いつでも、イエスの十字架についてお話ししたいとの思いがあります。表にそれを出さなくても、いつでも十字架を胸にお話ししているのは本当です。今日は、この一か月の春の時期に受け止めているルカ伝23章の十字架の記事において、正にその十字架刑の場面を取り上げます。それを、四つの場面に分けて追うことにします。
 
26:人々はイエスを引いて行く途中、シモンというキレネ人が畑から帰って来るのを捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後から付いて行かせた。
 
イエスは、十字架を負う体力がなかったのか、通りがかりの男にそれを背負わせました。十字形なのか、縦の杭だけなのか、分かりませんが、死刑囚は、自分が架けられる木を背負い、見せしめの意味もこめて刑場まで歩かされるのでした。しかし、イエスに対する暴力を、ルカは殆ど描いていません。前章で、拘束していた者たちがイエスを打ち叩いた事実はあるものの、ルカの筆は、ローマ権力による暴力を極力抑えているように感じられます。
 
通りがかりのその男の名は、シモンというキレネ人だと詳しく書かれています。この書き方は、後にこの人物が教会のメンバーになったことをにおわせます。「畑から帰って来る」というのは、新共同訳では「田舎から出て来た」とされていました。畑も田舎も、どちらも指し得る語です。逞しい農夫を想像させます。
 
この場面で、イエスは久々に言葉を発します。よろめき歩いたであろうイエスには、「大勢の民衆と嘆き悲しむ女たち」が従っていました。イエスの話した相手は、女たちでした。
 
28:イエスは女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。自分と自分の子どもたちのために泣け。
29:人々が、『不妊の女、子を生んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るからである。
30:その時、人々は山に向かって/『我々の上に崩れ落ちよ』と言い/丘には/『我々を覆え』と言い始める。
31:生木でさえこうされるなら、枯れ木は一体どうなることだろう。」
 
なかなか長い言葉です。女たちは泣いて歩いていたようです。しかしそれよりも、終末の裁きを思ってそのことで泣いたほうがよい、とイエスは言います。つまり、そこにいる人々は、裁きに遭うのです。災難に遭うというのです。すると、イエスを慕って悲しんで歩いていた構図が崩れます。
 
当地では、葬儀などで、悲しみを演出するために「泣き女」が雇われることがあったと聞いています。この場面でそういう商売が成り立っていたかどうか知りませんが、女たちはこういう場面で、泣いて悲しみを盛り上げるのが常識であったのかもしれません。しかしイエスは、そうした偽の「泣き」を演じている場合ではない、と警告したように感じられます。
 
女たちへ告げたイエスが語ったことの最後に、「生木でさえこうされるなら、枯れ木は一体どうなることだろう」という謎の言葉があります。これは、エゼキエル書を踏まえていると考えられていますので、参考にしてください。
 
すなわちネゲブの森に言え、主の言葉を聞け、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたのうちに火を燃やす。その火はあなたのうちのすべての青木と、すべての枯れ木を焼き滅ぼし、その燃える炎は消されることがなく、南から北まで、すべての地のおもては、これがために焼ける。(エゼキエル20:47)
 
イエスがこのような刑に処せられるならば、このような目に遭わせたユダヤの指導者たちがどんな厳しい裁きに遭うか、心に留めておくがよい。そういう方向で、いま私は捉えておくことにします。
 

◆彼らをお赦しください

このとき、イエスと共に十字架刑に処せられる者は、他に二人の男がいたようです。マルコもマタイも、それが二人だったと書いています。どちらも、イエスを中央に置いて、三人が十字架に架けられたのだとしています。そして、二人ともが、イエスを罵ったということになっています。
 
しかしルカだけが、ここを変えています。この二人の死刑囚の運命が、大きく分かれることを示しているのです。が、その検討は次の場面に譲ります。いまは、三人が架けられた瞬間です。
 
刑場は、町の城壁の外であった。「されこうべ」(若い方々には通じないかも?)なる名前が不気味です。そして言語に絶する痛みの中で、イエスが祈ったことが記されます。
 
34:〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕
 
聖書本文で見慣れない大括弧に囲まれているのには、理由があります。新約聖書の写本を調べていくと、信頼性のおける写本に、この箇所がないからです。研究者たちの調査ですから、その点は信用しなければならないでしょう。古いもの、しっかりした写本にはそれがない。だからこれは後から付け加えられた演出めいたものだ。そのような判断で、括弧付けで掲載されるようになったのです。
 
そのような箇所は、時々もう本文から完全に抜き取られて、しかしそれなりに複数それらが付いている写本があるにはあるから、巻末に参考までに置かれている、という場合があります。この「父よ、彼らをお赦しください……」も、省かれても仕方がないような箇所だということになります。
 
オリジナルではないのは明らかだから、ここは取り去るべきだ。そのように高圧的に語る学者の中には、聖書が神の言葉である、という信仰に立たない人がかなりいます。しかし、後から追加されたものを「改訂版」と理解するならば、改訂された後のものほど、改善されていく、という考え方もあり得るのではないでしょうか。聖書が神の言葉だと考えていない人々が、聖書はオリジナルでなければ意味がない、というのは、私から見れば逆に大した聖書信仰であるような気がするのですが、どうでしょうか。そういう学者たちは、ギリシア語の活用や並び方で、聖書の解釈を細かく論じます。よほど聖書そのものを信仰しているように見えて仕方がありません。
 
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」この言葉は強烈です。かつて無数の人々が、ここから救いを与えられています。以前にもお伝えしたはずですが、真珠湾攻撃の隊長であった淵田美津雄氏は、戦後この言葉で救われ、キリスト者となりました。しかも、真珠湾攻撃の張本人でありながら、アメリカにキリスト教の伝道者として渡るのです。人間的にはありえないことだと思います。
 
聖書として伝えられている言葉を、簡単に削ったり、もうそれ以上付け足したりはしないでおきたいように思います。もちろん、写本は様々に違いますから、その辺りはファジーであることを避けられないとは思われますけれども。
 
人々は、イエスの衣を分け合ったり、酢を差し出したりします。ルカは、これらをイエスを侮辱する行為だとして描いています。もう逐一取り上げてはいきませんが、人間たちがイエスに向ける皮肉や嘲笑といったものが、次々と繰り出されているように思います。
 
ここでは、もうイエスは語りません。いまこうして読んでいる私もまた、読みながら冗舌に何かを語るようなことが、できなくなっていきます。イエスが受けている侮蔑、それよりもなお、肉体的な苦痛は、筆舌に尽くしがたいものです。
 
そして、私が沈黙したくなる決定的な理由が、もうひとつあります。それは、こうしてイエスを罵倒している張本人が、この私であると思っているからです。
 

◆自分を救ってみろ

イエスに悪態をつくのは、この私であれ、誰であれ、ひとつの共通点をもっています。それは、当事者ではない、ということです。イエスのいる世界の外にいるということです。目の前にいる人に、直接「バカじゃないか」とは言いません。しかし私たちは、テレビの画面に向かっては、「バカじゃないか」と平気で言います。あるいは、野球場で、三振をしたバッターに、「どこを見てるんだ」などと野次を飛ばすのは、目の前でではありますが、相手から自分を特定できないという前提で怒鳴っていることになります。
 
でも、本当にイエスの世界の外に、私たちはいるのでしょうか。私たちが勝手に、そう思い込んでいるだけではないでしょうか。この十字架の現場で叫んでいる者たちもそうです。思い込んでいるのです。これが「群衆」です。
 
SNSでも、そういうことが起こっています。場外から、集中砲火を浴びせます。浴びせられたほうはたまりません。群衆には、自分が加害者だという意識はありません。むしろ正義の鉄拳を食らわしている、と英雄気取りにすらなっています。客観的に、自分は正しいと自分で決めて、世界の外から、安全なところから、一方的に攻撃をしかけているのです。
 
クリスチャンを自称しながら、そうした醜い姿を世界に示している人さえいます。いえ、私もまた、そうだということにもなります。このような世界観は、近代的世界観の中に必然的にこびりついている、と見ることもできますが、いまはそのことに走っていくことはできません。
 
しかしこの場面では、さらに恐ろしいことが起こっています。当事者が、イエスを罵倒しているのです。イエスと共に十字架につけられた者のうち、ルカによれば一人が、イエスに対して、群衆と同じことを吐いています。自分を救ってみろ、俺を救え。もちろん、これは信じて言っているわけではありません。どうせ信じてなどいないのです。怒りをもっていく場所が見つからないので、怒りをぶつけやすい相手にぶつけているだけです。
 
この男には、死刑の当事者としての立ち位置があります。己れの悪行を自覚もしています。刑罰もなんらかの意味で仕方がない、と分かっています。それでも、イエスを非難します。とても客観視などできない者であっても、そしていままさに殺されようという極限状況にあるような者であっても、それでもイエスに噛みつく人間の性質がここに現れています。
 

◆今日楽園にいる

マルコとマタイは、死刑囚の二人とも、イエスを罵ったことにしていました。しかしルカは、そこに救いを見出します。いえ、それを読む者の内に、救いを、光を、もたらそうと努めているようにも見えます。
 
40:すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42:そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
 
この刑場では、イエスの弟子たちすら逃げ出しました。遠くから何人か見守る者はいましたが、それが精一杯でした。ルカは、救われる人間とはどのような者であるのか、ここでひとつのモデルを示しているように思われます。救いの道を示したかったと思うのです。
 
この会話が現実に交わされたのかどうか、それを聖書学者は話題にします。議論します。そしてルカの創作だ、などと言って溜飲を下げるような態度をも見せます。どうせルカ自身が聞いたわけがないだろう、どうやって取材したのか、などと尤もらしいことを言います。
 
しかし、霊は伝えるのです。風となって、神の息として、神はそれを伝えることができる、それが聖書の信仰というものです。ここでルカは、救いを私たちに伝えなければならなかったのです。
 
43:するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
 
それのメカニズムを説明する必要はありません。これは信仰の事柄です。あなたが、信じるか・信じないか、です。イエスを敬愛したこの死刑囚であっても、これを信じない可能性はあったのです。
 
しかし、逆に言えば、イエスはその信仰を見抜いた上でこれを言った、とも考えられます。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と。「楽園」とは、いわゆる「パラダイス」です。ペルシア由来の言葉だと言いますが、そうした言葉で、神の国をも指すように用いられていたのでしょうか。
 
それよりも、この「今日」とはいつなのでしょうか。ヘブライ書には、こうした「今日」ということについて、よいメッセージがありました。
 
「今日、あなたがたが神の声を聞くなら/神に背いた時のように/心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ3:15)
 
今日聞いた福音は、今日受け容れて、今日命となる。それは、この手紙を受け取った人にとっての「今日」であったはずですし、いま私たちが読んだときの、その「今日」でもあるはずです。
 
「あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と、控え目な形でお願いしたこの救いの願いに対して、イエスは「今日」と応えました。この「今日」が私たちの「今日」でもあるとしたら、私たちもその救いの言葉を、いまここで受け止めようではありませんか。
 

◆霊を御手に委ねます

44:すでに昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、三時に及んだ。
 
全世界は、光を失おうとしていました。人間の罪が、重大な事件を起こしました。イエスが灯火となり、光となって、癒やしと奇蹟を見せていたのは短い期間に過ぎませんでした。それが終わりを告げようとしています。日蝕のことだ、だから何年の何月何日だ、などということに興味をもつ人もいますが、どうやらお門違いです。私たちが、目の前が真っ暗になることがあるように、全地は暗くなったのです。
 
中村哲さんが、2019年12月に銃撃されたとき、世界が暗くなったことに気づいた人がいただろうと思います。イエスであればなおさら、暗くもなるでしょう。その死は、私たちがもたらした死です。私が殺したのです。私たちを救うために、イエスは死ななければならなかったのです。キリスト者は概ね、そう理解しています。この暗さは、ただ事ではありません。
 
44:すでに昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、三時に及んだ。
45:太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
 
神の重大ないけにえの儀式が行われています。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたというのは、人と神とを隔てていたものが、いままさに破れて消えたというように、しばしば考えられています。
 
46:イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。
 
なんと、イエスが大声で叫んでいます。死の直前、もう精も根も尽き果てた状態、しかも苦痛は極限どころではないものだとされる十字架刑において、大声だと記されています。人間の救いのために必要な、大声でした。人々に、それを響き聞かせる使命もありました。
 
霊を御手に委ねます。「霊」は、ご存知のとおり、「息」であり「風」です。人となった神は、肉体を遺して、霊を神の手に握らせました。
 
百人隊長は、ローマ側の役職です。地位的には幅広い立場に理解され得ると思われます。ここでは死刑執行の責任者だったのでしょうか。その百人隊長が、「この出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を崇めた」(23:47)と記されています。
 
この言葉については、他の福音書は「神の子だった」と記しています。すると、解釈が両義的であるように見えます。本当に立派だと感服した、とも受け取れますし、その逆に、本当にこの男が神の子だったというのか、というような意地悪な見方もできるかもしれません。ルカの書きぶりは、感服したように受け取りやすくなっているように思います。ローマ寄りの記述をとることの多いルカですから、恐らくそうだったのでしょう。
 
そうすると、ルカは、同じ十字架刑に処せられた二人のうちの一人を、なんとか救いに導いたようにまた、イエスを責めたユダヤ人に対してと同様に、異邦人もまた、神の栄光を見て救いが与えられる道を備えていたのかもしれません。
 
ルカはユダヤ人の「群衆」というものに対して、あまり好意的には考えていない様子が、福音書の随所から窺えます。しかし、ここで群衆は、「これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」(23:48)と記録しています。キリストを殺せと叫んでいた人々ですから、神の子を喪ったというような思いはないだろうと思いますが、何かしら良心の呵責を覚えたのでしょうか。やがて、それを自分の罪だと明確に意識したとき、復活のイエスの救いを求めるように変わればよいが、と願います。それは、私自身が、かつてそうだったからです。気の毒だった、自分が悪かった、その程度ではありません。自分の罪があること、神の前に罪を犯した、という強烈な意識が必要なのです。
 
必ずしも群衆の一人ひとりがすべて胸を打っていたかどうか、私は知りません。しかし、「出来事を見」たのは確かです。確かに、神の出来事を見たのです。この出来事に出合い、心を探られたに違いありません。
 

◆遠くに立って

十字架を見ていた人々の姿は、もうひとつ描かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た女たち」(23:49)です。弟子たちに匹敵する立場の人がいたかもしれませんが、弟子たちは、見つけ出されれば同様に捕まる可能性がありますから、隠れていた可能性が高いのではないか、と私は想像します。それよりも、特に「女たち」が挙げられている点が重要であるように感じます。イエスと弟子たちの旅の生活を支えたのは、女たちであったと推測するからです。
 
この人たちは「遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)のでした。遠くから、というのは仕方のないことでしょうが、イエスの死に様を、しっかりと見ていました。観察する、監視する、などというと物騒なイメージを呼びますが、よく見ていた、ということに違いはありません。
 
讃美歌の「あなたもそこにいたのか」を思い起こします。1節だけ引用をお許しください。
 
  あなたも見ていたのか 
主が木にあげられるのを
  ああ、いま思い出すと、
深い 深い罪に 
わたしはふるえてくる

まさにそういう場面なのだろうと思います。この黒人霊歌が、いまの自分たちが互いにそうなのだ、という視点で歌っているのは見事です。私たちもまた、この出来事の目撃者なのです。この出来事の証人なのです。イエスは確かに死んだ。その証人です。そして、三日後には、イエスが確かに蘇ったことの証人となります。「証人」という言葉は「殉教者」をも意味するものであることは、よく知られています。私たちは証人として証言します。それを語れば死ぬかもしれないのに、命懸けで証言するのです。
 
私たちは見ました。主の十字架を見ました。それが見える場所に、この教会に呼ばれました。それは、私たちが立派な人間になるためではありません。敬虔なクリスチャンであるように、と呼ばれたのではありません。このイエスを見た、というただそれだけのために呼ばれたのです。私たちはイエスを見ました。このイエスに出会った者となりました。
 
そのイエスは死にました。殺されました。その死が、自分の救いのためであったことを、証言します。イエスの死によって、私が救われたのだ、と告白します。そして、このイエスはすべての人を救う力をもっている、と叫ぶことができます。十字架を指し示して、ここに救いがある、と証言できます。それができたらよいのです。それをするのです。私たちは十字架を見ました。だから、証言するのです。
 

◆見たではないか

私たちはイエスの業を見ました。そして、証言しました。それから、どうしましょうか。悲しみましょうか。悲しむことも必要です。特に、私が殺したのだという恐れと戦きを以て悲しむことは、どうしても必要です。けれども、泣くことで終わるわけにはゆきません。イエスの地上生涯は、私たちに何を見せてきたでしょうか。人を赦すこと、愛し合うこと、それを命じたイエスの声をも、確かに聞きました。ええ、それも証言しましょう。イエス自身が、この十字架の上ですらも、赦したではありませんか。父なる神に、赦してやってください、と願ったではありませんか。
 
私たちも、同じように赦せるでしょうか。簡単にはできないかもしれません。けれども、赦すことができるように祈ろうではありませんか。できれば、十字架の上という間際であっても、イエスの救いに与ったあの囚人のように、イエスに願いましょう。願う相手であるイエスは、すぐそばにいます。私は自分の罪のために十字架につけられます。主イエスは、その私の罪の証書を無効にするために、私の横に十字架につけられています。イエスは隣りにいるのです。
 
だから私は、イエスの叫びを確かに聞きました。イエスの十字架の姿を見ました。
 
イエスの救いを知っているよ、死んでくださったんだよ。それは嘘ではないにせよ、既成事実のように、冷たい決まり文句のように繰り返しているようなことはないでしょうか。私たちは、もしかすると、今日初めて、イエスの死を、イエスの業を、こんなにリアルに知ったかもしれないのではありませんか。そう問いかけたい。それでこそ、受難週です。
 
イエスが隣で私に向けて言ってくださった言葉を、ギリシア語の順番で、ゆっくりと、最後に聞いてみましょう。
 
アーメン、あなたに、私は言う。今日、私と共に、あなたはいるだろう。パラダイスに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?