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約束の救いを握りしめて (ペトロ一1:3-9,イザヤ46:8-10)

◆終わりの時の救い
 
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。(ペトロ一1:5)
 
今日は「救い」に焦点を当てて、人間にとって必要なもの、大切なところに光を当てることができれば、と願っています。
 
今日のテクストには、「準備されている救い」という言葉がありました。ここに、しばらく心を向けていこうと思います。「救い」とはいったい何なのか、それは一度追究せず、漠然と私たちがイメージしているままに進めていくことにします。この「準備されている救い」という言葉から気になるのは、その救いが、これから先のことであるように感じられる、ということです。
 
救いが実現されるのは「終わりの時」だというように、聞こえます。そして聖書では、そうした見方がしばしばあることを、聖書に親しむ方はお気づきだろうと思います。
 
いまは、辛い。苦しく、困難の中にある。でも、いつか神は救ってくださる。救いは将来、与えられる。かつての信仰者は、いまの私たちの想像を絶するような酷い目に遭っていたことでしょう。いえ、今もそういうのがないわけではないし、日本でも迫害はありました。ただ、灯となるように燃やされたり、獣の餌食になったりということは、そうそうあるものではないと思います。
 
現世においては、もう信じれば苦難しか来ず、希望をもつことができるとすれば、死後にしか考えられない、そんな考えが当たり前だった時代に、初期の信仰者たちはあったのです。一縷の望みをもつとすれば、キリストが死後救ってくださり、神の国に連れて行ってくださる、というところにしかない、そんな時代があったわけです。そのような希望を胸に、殉教という呼び名の中で命を失っていった人が、歴史上、どんなにたくさんいたことか、と思いを馳せます。考えただけでも苦しくなりますが、そんな信仰の先輩方が、数限りなくいたのだということを、忘れてはいけないと考えます。
 
◆今ここで祝福される救い
 
今の苦しみに耐えること。確かに新約聖書には、そのような勧めが多々あります。その頃現実に起こりえた風景は、今の私たちから見れば不条理極まりないものなのです。それは必要な信仰でした。が、果たしてそれがすべてなのでしょうか。それでキリスト教信仰が説明されて、それでよかったのでしょうか。今このとき、喜びに満ちている、そういう信仰はないのでしょうか。
 
何事も極端というものは、あるものです。なんといっても分かりやすいですから。政治的主張でも、深い思慮などを説明しても、人々は理解を示してくれません。きっぱりと、何々だ、と言い切って、ひたすらそれを連呼すること。そのようなプロパガンダによって、ドイツの人々も、すっかり同調してしまったのです。それに比べると、ウクライナを攻撃しているロシア内部にも反対運動があると報道され、必ずしも一色に染まっていかないのだとすると、もしかすると情報機器の発達が、関係していると言えるのでしょうか。ベルリンの壁を壊したのも、情報の力が大きかったと言われています。
 
ここで極端だというのは、今喜ぶ信仰のことです。あるのは、あります。やたらとそれを強調し、他国でメガチャーチを築いたという例もあります。信じると、幸福になります。神さまの祝福を祈りましょう。お金も手に入ります。地位も、名誉も……といった具合に、徹底的に現世幸福を説くのです。これもまた、ある意味で分かりやすいですし、何にしても御利益もたっぷりですから、人気を博すことも、分かります。
 
今このときに喜ぶということ、実はやはり聖書は、これを確かに言っているようにも思われます。
 
主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)
 
このフィリピの信徒への手紙は、喜びの書簡とも呼ばれ、パウロがしきりに「喜べ」と言っていることで知られています。けれども、これを書いたとき、エフェソかローマかどこかの牢獄の中だったと推測されているように、パウロは劣悪な環境の中にありました。するとパウロは、能天気に喜んでいたり、喜べと勧めたりしているのではないことが分かります。やはりこの喜びにしても、苦難を乗り越えた、ある意味で将来のことを踏まえた中での喜びであるのかもしれません。このことは、イエス自身が「喜びなさい」と言っている次の2箇所からも窺えます。
 
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ5:12)
 
しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)
 
けれども、だからと言って、この喜びがただの希望に過ぎない、というわけではない、と捉えてみます。いまここに、それはないかもしれません。しかし、ここに「ない」からこそ、求めるべき対象として、希望は確かに「ある」と言ってもよいはずです(ブロッホ)。イエスの言葉も、報いを前提していますし、名が天に書き記されていることが約束されている、その中で喜べと言われているように読んでよいはずです。
 
約束されている事柄を救いだと見ると、この救いは、やはりいま確約されていると捉えてもよいのではないでしょうか。約束はいずれ果たされるもの。ただ、それを信頼しているかどうか、で喜び方も変わってくることでしょう。神の約束を信じるというのは、なるほど、そのような意味であると理解してよさそうです。
 
◆チケット
 
妻の勤める医院は、小さな町のかかりつけ医というスタンスですが、何人かのスタッフがいて、時折、文化的なイベントがあります。なかなか個人では見られないような、舞台や歌舞伎などの鑑賞の機会があります。医療というものは、ひとの体をメカニカルなものとして扱うことではない、文化を通じて豊かな心を育むことも、医療従事者に必要な経験だ、という意味ではないかと思います。
 
福岡だと、博多座という大きなホールがあります。歌舞伎などは、やはり年齢層が高くなりますが、今年は若い人が押しかける舞台がありました。「千と千尋の神隠し」です。地元で一番人気の橋本環奈と、テレビでもその才能を遺憾なく発揮した、鹿児島出身の上白石萌音とのダブルキャストでも話題になりました。そのチケットがまた、実に手に入りにくく、予約開始の瞬間に完売といった激しい情況がありました。
 
こういうときも、たとえば野球場では「ダフ屋」と呼ばれる人がうろつくことがあります。最近はスマホを通じての個人認証などの方法で、昔ながらのダフ屋を封じているようです。まさかそうした筋からではないでしょうが、院長が苦労して、各方面からかき集めて、人数分のチケットを入手したというのは、それだけでも奇蹟のようなものでした。
 
しかし、この舞台、橋本環奈が新型コロナウイルスに感染したという衝撃のニュースが走り、公演中止が発表されました。妻たちのチケットは、中止が決定した最後の昼の公演の、その日の夜の部のものでした。ぎりぎり、まだ中止かどうか分かりません。追って開催か否かは知らせるということで、間際までやきもきしていましたが、なんとその夜から、公演は再開されました。もちろん主役は上白石萌音のほうでしたが、努力と才能豊かな彼女の演技に、妻も魅了されて帰ってくることになりました。
 
橋本環奈のほうも、感染後は大事に至らず、何よりでしたが、さて、このやきもきした顛末の中で、私はふと「チケット」というものの存在に、不思議な気持ちを懐きました。
 
博多座の公演のチケットです。それは、事前に手に入れるものです。それを予め得ておけば、あとは当日、博多座に行くだけです。行けば、その時の舞台を見る観客の席が、ひとつ用意されていて、必ずそこに座ることができるのです。まだその日にならないうちに、その日にそこに座ることが、約束されており、そこに座ることが、決まっていることになります。
 
そうです。キリスト者は、まだ神の楽園に入っているわけではないと思うのですが、そこに入るためのチケットを、手にしているわけです。自分の座席、居場所も決まっている。相応しい時がくれば、そこにちゃんと自分の場所がある。そんなチケットです。
 
いやあ、本当に神の国に入ることができるのだろうか、などと案ずる必要もありません。もうすでにいま、そこに入ることが、決まっているのです。そのチケットが、与えられているのです。
 
いま「与えられている」と言いました。私が自分で買ったチケットではないからです。ほかならぬイエス・キリストが、代わりに支払ってくださったチケットです。私が何か良いことをしたから、そのご褒美に下さったのではありません。抽選で当選したのでもありません。それどころか、私は本来、そのチケットをもらうような資格は、何ひとつなかったのです。私は罪を犯した。罪の中にある。その罪は、義の神としては、放置するわけにはゆきません。神の正義が破壊されかねません。正義は正義、罪は罪、けれどもひとを救いたいという神の一方的な愛によって、神は、イエス・キリストの十字架という出来事を起こしました。十字架の血の代償で得たそのチケットが、十字架を見上げる私の許に、届けられたのです。
 
◆神の力によって
 
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。(ペトロ一1:5)
 
「救い」は、もう与えられた、と申しました。救いのチケットが、もうここにあります。けれども、気をつけるべきことがあります。チケットを、なくしてしまうかもしれないからです。あるいは、相応しい時を迎えても、チケットのことを私が忘れてしまっているかもしれません。主人の宴会に来いと言ったのに、礼服も着ていないのか、と弾かれた話(マタイ22章)もありました。
 
そんなことのないように、神は私たちを守っているといいます。私たちは、守られているのです。そしてそれは第一に、「神の力によって」だと告げられています。
 
実はこの5節の原文では、最初にこの「神の力に」という言葉があります。まずこれが強調されているのです。ギリシア語は、日本語のように、語順をかなり自由に変えることができますから、この文の単語の置かれた順番どおりに日本語で置き換えてみると、およそ次のようになります。
 
(あなたがたは) 神の力において 守られていて 信仰を通して 救いへと 用意され 隠されていたのが明らかになり 終わりの時に
 
なんといっても、これは神の力の中での出来事です。つまり対比させれば分かるのですが、人の力によってではない、ということです。そういえば、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ簡単だ、とイエスが言ったとき、弟子たちとイエスとの間に、このような会話がありました。
 
弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」(マルコ10:26-27)
 
救うのは、人の故ではありません。神の力が働く場においてこそ、の救いなのです。だから逆に安心です。私にはあれができない、これを失敗した、そこに根拠が置かれることがないのです。神の力により、新生が経験できます。希望が与えられます。
 
「力」というと、どうしても強制力や、下手をすると暴力的なものが連想されるかもしれません。けれどもそれは、ただ私の内部に求めさえしなければよいのです。自分が、自分が、ということから離れて、自分の外から来る力を待ちましょう。私の心や行いがどうだということですら、もはやありません。
 
◆信仰を通して
 
神の力において守られている。それは信仰を通してである――原文はそのような調子で書かれていました。この「信仰」と訳すことの多い語は、「信頼」や「信実」のような訳され方もする語で、広く「信」の一言でイメージするものに近い語です。このことについては、また次回ご説明させてください。
 
ただ、これは誰の信なのか、ということは、いささか理解の幅をもっている場合があります。「信仰を通して」と書けば、当然人間が神を信じることです。私が「信仰するぞ」と奮起する様子が目に浮かんでしまいます。けれども、「信頼を通して」と考えるとき、それは、神が人間を信頼することを意味することができます。多分この箇所をこのように解釈する人はいないだろうと思うのですが、敢えてそのような角度で見つめてみると、少し違う味わいができるような気がするのです。
 
つまり、神が私たちを信頼しているから、私たちは守られている、と受け止めてみるのです。こうなると、肩に力を入れることなく、私たちもまた、神を信頼していればよい、とだけ思えるので、少し安心できるように思います。
 
親が自分を信頼している、ということが分かるとき、子どもは、その信頼に応えるように思うのではないでしょうか。単に、親がこれこれをするな、と命ずることに従うかどうか、で子どもが価値判断をするとは思えないのです。信頼されていることをひしひしと感じるからこそ、子どもは自制ができる、そういうことがあると思うのです。
 
そのとき、子どもはきっと、自己肯定感をもつでしょう。近年、自己肯定感の薄い子どもが増えている、とも言われています。不景気しか知らないで生まれ育った子どもたちや若者が、将来に希望を懐くことができるのかどうか、そこに一つの鍵があるかもしれません。親世代の管理や圧力が強くて、反抗の力を出すことを逸したことが、自分への反省ばかり思考を導いていった可能性もあります。簡単に決めつけてはいけませんが、自分への信頼、自分が立ち向かう未来への希望、そのようなものが、自己肯定感を生むことがあるような気がします。恐らくそれは、外からの肯定を必要とします。だから、神が人間を信頼しているという理解は、神が私たちを守っていることにつながると考えてみたい、としたのです。
 
ただ、神がどうして人間を信頼していると言えるのか、そこは問わなければなりません。神の送った独り子イエスを、おまえたちは見たか。このイエスの死が、おまえの死でもあるのだ、それを思いつつ、十字架を見上げたか。神はその問いをぶつけるために、四つもの福音書を、選んだ人に書かせたのではないか、と私は思っています。
 
◆手放すな
 
6:それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、
7:あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。
8:あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
9:それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。
 
最後の「信仰の目標」は、「信仰の終わり・行き着くところ」のように見てもよいかと思います。目的意識というよりも、この「信」が結局最後には、「救い」に至るのだ、というところを押さえればよいのです。「魂」は、どうしても「肉体と霊魂」のような分け方をしたうちの一方を思わせがちです。聖書世界は、このようないわゆる「霊肉二元論」の文化にはありません。「魂」と訳した「プシュケー」は、プラトン哲学では明らかに肉体という牢獄から解放されるべき「魂」を表しますが、聖書ではしばしば「肉体を伴った人間の命」を指し示します。それは「永遠の命」を表すことは普通なく、私たちが生きているこの普通の「命」を想定してよいように思われます。
 
だからここは、比較的軽い意味で、「命の救い」と言っている理解でよいのではないかと思います。つまりは、例の救いのチケットを手にしている、という程の意味だと受け止めてよいわけです。
 
そのために私たちは守られている、と言いました。神の力で守られています。信頼関係を通して守られています。ただ、チケットをなくさないかどうか、その一つの懸念が、ここにあった「試練」という説明を受けておきましょう。厳しい試練があるかもしれません。実際、この手紙の背景には、言語を絶するような迫害があったと見られています。それでも、当時の教会は、励まし続けたのです。
 
君たちはチケットをもらっているのだ。それを手放すな。イエス・キリストが再び来られるときに、限りない栄光に包まれ、祝福され、神の国に入れられるのだから。チケットを握りしめて、放すことのないようにしなさい。懸命に呼びかける言葉は、財産や命や、もしかすると市民権のようなものを奪われた、かの時代のキリスト者たちに、どう響いたでしょうか。凡ゆるものを奪われたとしても、この約束だけは決して手放すな、と、心を支える強さとなって、響いたのではないか、と想像できます。
 
8:あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
 
現代の私たちは、このような喜びに溢れているでしょうか。キリストをこの目で見たのではないにしても、キリストを愛していると告白できるでしょうか。信じていますか。これはいまや私たちが問われているはずのことです。
 
◆ほかに神はいない
 
このような呼びかけが、旧約聖書の時代から、キリストのためにも発されていたのだということを、終わりにイザヤ書46章から、聴いてみることにしましょう。
 
イザヤ書46
8:このことを思い起こし、よく考えよ。/背く者らよ、胸に刻め。
9:いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ。/私は神、ほかにはいない。/私のような神はいない。
10:私は、終わりのことを初めから/まだなされていないことを昔から告げてきた/「私の計画は実現し/その望みをすべて実行する」と。
 
イザヤ書は神秘的な書のようにも扱わます。旧約聖書の預言者の書の中でも最大の書であり、また新約聖書への引用や関連からしても、詩編と並んで最も多く関わっていると言われます。イザヤは、イエスを想定していなかったことでしょうが、イエスはイザヤ書を知っています。イザヤ書を意識して、メシアの活動をしていたことは間違いないでしょう。
 
イザヤ書は全部で66章あります。これが、39+27とに分けると。旧約聖書の39巻、新約聖書の27巻とに対応できます。しかも、新約聖書の始まる40巻からは、イザヤ書の調子ががらりと代わり、時代的にも事件的にも異なるものを描いた、第二イザヤが始まるという研究結果が、定説となっています。できすぎた構成です。そのため、聖書全体をイザヤ書に結びつけて理解しようとする試みもありました。が、ともかくイザヤ書は新約聖書を読むにあたっても、特殊な扱いをすべき重要な書です。
 
この46章では、イスラエルの生涯を、主なる神が背負うことを宣言します。「このこと」とは、こうした神がイスラエルをまるごと抱え、救い出すという神の言葉を指しています。思い起こせ、考えよ、胸に刻め。私が神であり、ほかに神はいない。力強い神の言葉が続きます。そして、これからのこともちゃんとあなたがたに告げてきたのだ、と言い、神の言葉はすべて実現することを明らかにします。こうして神の正義は間もなく実現するのだ、と言うのです。
 
何も、このイザヤ書の解釈について、あれこれと申し上げようというつもりはありません。神の約束を、神自身が確言しているのですから、私たちはその約束を堅く握りしめていこう、とお誘いするだけです。それだけでよいではありませんか。ほかにはいないこの神を信頼しましょう。それは、神の言葉を握りしめて放さないということです。確かなチケットを発行してもらっているのですから、それを握りしめて、その日が来るのを楽しみに待とうではありませんか。
 
◆その日、チケットを手に
 
正直に申しまして、旧約聖書における「救い」と、新約聖書における「救い」との間には、温度差があるようにも思えます。どうしても、旧約聖書の場合には、出エジプトの出来事の意味が大きく、また、神に従わぬ故に一度故国が滅ぼされてからの復興が、次に大きなテーマとなってきます。地上にダビデ王の国がもたらされることへの憧れのようなものが、強く反映されていることを否めません。
 
それに対して新約聖書においては、ヘレニズム期を経てギリシアないしローマによる支配の中で、信仰的に不遇な目に遭っていたイスラエルの民が待ち受けていた、メシアへの期待が膨らんでいきます。しかも、それをリードするはずの、宗教的なリーダーたちの営みを粉砕するイエスが登場して、地上における神の国が、むしろずっと将来にずらされ、永遠の命への憧れが増していく様子を見ます。
 
「救い」という言葉でイメージするものが、必ずしも一様ではないということは、押さえておきましょう。しかし、それを矛盾だとかおかしいとかいうふうに考えるのではなく、新約聖書が「見よ」と促すイエス・キリストの十字架を、まさに「救い」の焦点として受け容れるのが肝腎なことであることを、忘れないようにしましょう。
 
イエス・キリストこそ、私たちの救いです。この方への信頼がブレることのないように気をつけながら、イエス・キリストをまっすぐに目がけて進むのです。そこから目を逸らさずに、まっしぐらに歩くのです。教会に集まったとしても、なにも人を見にそこへ来ているのではありません。「風にそよぐ葦」(マタイ11:7)を見ても仕方がないのです。むしろ、神の霊という風にそよぐ、ひ弱な一本の葦として、私は、神を賛美する者でありたい。コンサート会場でペンライトを揺らすファンのように、握りしめたチケットを高く掲げ、神に向けて、ありったけの感謝の声を叫びたい。きっとそこでは、コロナ禍もありませんでしょうから、密になり、声を嗄らしても、問題はないはずです。

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