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賛美とバリアフリー

(2003年4月 #アーカイブ )
 
 昔からの『讃美歌』を使う教会。まだたくさんあるでしょう。とくに高齢化現象に悩む教会は、やたら新しい歌集を使わないのが通常でしょう。しかも、本を片手に、それに見入りながら歌う――一つ一つの歌詞をかみしめるように、文語調の歌詞を綴っていく歌い方です。もしかすると、ときに歌詞の意味が分からないままに、ありがたがって……。
 
 他方、賛美は魂が満たされるものと考えるグループでは、「新しい歌を主に向かって歌え」との詩篇の言葉を頼りに、次々と新しい賛美を取り入れます。大きな紙に歌詞を書き出して前に掲げたり、OHPで歌詞を壁に映し出したりして、歌う会衆の顔を上に向けさせます。時に目を閉じて、手を挙げて、陶酔したように歌い続ける――中には、日曜日の礼拝の間ずっと、そうして歌い続けて終わる、という教会もあるそうです。
 
 どちらも極端かもしれません。
 
 
 母教会は、前者のタイプから、だんだん後者に近づいてきました。それでも中央よりやや後者寄り、というところでしょうか。今私が礼拝に出ている教会は、前者に近いところにあります。しかし子どもたちが礼拝の前半に参加するようになって、ギターでかき鳴らすタイプの賛美を一曲取り入れるようになってきました。

 最初は、歌詞原稿を作り、拡大コピーして、司会者が前で掲げるようにしました。これで少しでも顔が前へ向きました。弱視の方のためには、その方にだけ手元にその歌詞原稿を渡しておきました。なじまないギターの伴奏にも、なんとかついてきました。裏打ちの手拍子を促してみましたが、それはどうしてもできませんでした。

 この春、比較的覚えやすい歌詞の曲を用意し、ついに、歌詞をまったくプリントすることなく、映し出すこともせず、一度リードするだけで歌ってもらうことにしました。フレーズの頭で短く歌詞を教え、それで一通り歌うと、次からはリードを減らして歌います。少しはワーシップの感じになってきました。
 
 子どもたちは、それで十分です。もともと幼児は、歌詞の文字を頼りに歌ってはいません。歌は全部覚えるもの、と考えています。むしろ覚えられないのは大人の方で、しかも、間違っても堂々と声を出す子どもと異なり、間違えては恥ずかしいと思い、ますます声が小さくなっていきます。歌詞が見えていないと、不安なのです。
 
 でもこれは、必要な試みだと確信しています。私はギターをリードしながら、この路線を守ってほしいと願っています。たとえ大人からどんなクレームが来ようとも、礼拝の中で一曲だけでも、短い歌詞を覚えて歌うことは必要なことだと思うのです。顔が天を向き、口を大きく開けて恵みに満たされようと求め、心から神に向かい、神に賛美をささげる行為です。そのうち、手拍子が出たり、両手が挙がったりするようにまでなってほしい……。
 
 
 初めてまったく歌詞を見せずに歌った後、妻が言いました。
 
「今日、Kさんと初めて共に歌えたような気がした」
 
 Kさんは、電車を独り乗り継いで時々来る、視覚障害者です。生まれつき全盲の方です。まだ求道者という立場ですが、聖書はよく読み、心では信じています。
 
 教会には、点字の聖書と讃美歌は常備されています。が、他の歌詞については点字に打つという人がいません。Kさんは、これまでも、讃美歌にない歌については、その都度聞きつつ覚えながら追いかけるということをしていたはずです。
 
 それが今回、全員が、いわばKさんと同じ立場で、賛美に向かい合えたのです。目が見える人も見えない人も、今回の仕方の賛美においては、何ら変わることがありません。
 
 それで妻は、「初めて共に歌えた」と言ったのです。
 
 
 ともすれば流行の言葉のように、「共に」というフレーズが使われます。教会のみならず、世間でも。バリアフリーと称して、福祉のために予算を使ったりもします。でも、たとえ善意からであったにして、見える側からのお仕着せであったり、見えない側にしてみればありがた迷惑だったり、ということも珍しくないようです。それほどに、立場の異なる人間が「共に」というのは難しいものです。
 
 歌詞を一切記さないという、このひとつの賛美の方法は、「共に」に近いところを体験できた、うれしいものでありました。

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