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恵みとはいうけれど

コリント二6:1-10 
 
神と共に働く者としてのパウロの自負を、ここに見ます。パウロの強い確信は、尋常のものではありません。何をするにしても、思うにしても、神からのパイプにがっちりつながっていて、そこからたっぷりと神の力を注がれています。それがすべての発言の前提です。これこそ、正に「信仰」と言うべきものです。
 
神からの恵みを受けているということなど、パウロにしてみれば当たり前すぎることであって、いまさら問うことも馬鹿馬鹿しいほどに当然のことなのです。「私は恵みの時に、あなたに応え/救いの日に、あなたを助けた」というのは、イザヤ49:8からの引用ですが、パウロは「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です」と喜んでいます。
 
ところが、気になって調べてみると、意外なことが分かりました。キリスト者で聖書に少し詳しくなると、「恵み」というと、新約聖書ならばギリシア語の「カリス」、旧約聖書ならばヘブライ語の「ヘセド」を思い浮かべます。「愛」や「好意」「好意」のような意味合いが、「恩寵」のような意味に深まるものと考えられています。
 
しかし、ここで「恵み」と訳されている語は、このタイプではないのです。イエス・キリストの十字架の救いの恵み、というようなイメージを抱くときの「恵み」と同一に考えるわけにはゆかないのです。同じ日本語で「恵み」となっているので、ここは他の訳語ではできなかったのだろうか、と不思議に思います。
 
ここでは「神が好ましく受け容れてくださる」というような色の濃い言葉である、と考えられているようです。「恩寵」はどうしても、神から与えられる、という方向性を強く覚えます。しかしここでパウロが記しているのは、それよりも、「神が肯定した」感じを強く覚えます。神の「然り」であり、「甚だよかった」に近いものを私は感じます。
 
人生の中で出会う、いろいろ否定的なことがここに次々と並べられます。これら不運な出来事も、すべて己れを神と共に働く者である正に証拠となっているほどのことだ、とどこか自負しているように見えます。どんな不幸な出来事も、神が肯定しているとの信頼が有ります。神が受容しているのですし、だから神の手の内にあると見るのです。
 
人の目に不幸としか映らないようなことも、パウロの働きが神の祝福の内にあるのだと信じているのであれば、信仰のうちに私たちも肯定できるかもしれません。それの分からぬ狭い心でいてくれるな。恩寵としての神の「恵み」を、私たちはイエス・キリストによってたっぷりに受けているのですから、大丈夫だ、というわけです。

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