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神は父であるのか (出エジプト20:12, 申命記5:16)【十戒⑤】

◆父という存在

あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。(出エジプト20:12)
 
あなたの神、主が命じられたとおりに、あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生き、幸せになることができる。(申命記5:16)
 
十戒の五つ目、ここまでは神に対する戒めでしたが、ここからは人の世界の戒めであるように見えます。出エジプト記と申命記とで、ここでは基本的に変わりがありません。申命記には「幸せ」という語がありますが、これは申命記の特徴のひとつです。神に従えば幸せになれる、そうでなければ呪いが襲う。申命記はこの対比をよく示します。
 
父と母を敬え。話題は、しばらく父のほうに傾いたまま続けることになります。ご容赦ください。
 
父とは何でしょうか。子どものころ、不思議に思いませんでしたか。母から自分が産まれたことは、なんとなく理解する。でも、父と自分との関係は何なのか、子どもには、実はよく分からないのではないでしょうか。遊んでくれることがありますが、なによりも給料をもらってくる人のようです。母と仲良しのようですが、その父と、子である自分とのつながりがピンとこないわけです。母は、肉体的なつながりがあるので、それなりに分かりやすいのですが、父に対してはその実感がありません。父は、どこかその存在が抽象的で、精神的であるような気もします。
 
小学五年生の理科で、妊娠や出産の仕組みを学びますが、これまたきわめて抽象的で、項目を覚えるだけのように見えます。教えていても、子どもの側も、さほど深いところを気にする様子もありません。中学三年生の理科で、初めて遺伝子について学ぶと、ちょっと立体的に分かるような気がしてきますが、その頃にはもう父親の意味は分かっているのが通常です。
 
昔は「地震雷火事親父」という言葉がありました。いま懐かしくそれが持ち出されることがありますが、すっかり過去の話で実感はありません。父はかつて、家庭内で絶対的な権威をもっていました。「家長」という言葉もいまは通じません。
 
恐るべき神のように君臨する父親ですが、子どもにとり、母親を自分が独占できない邪魔者のようにも思えます。フロイトはそこを強調したのでした。
 
ローマ帝国では、産まれた子を父が認知するかどうか、正に生殺与奪の権まであったそうです。嫡子と決めれば大切に育てられることになりますが、自分の子として認知しなければ、売られようが棄てられようが構わなかったようです。こんなことを聞くと、男社会について、いろいろ文句を言いたい方もいるかと思います。
 

◆生命の理由

科学論を展開するつもりはないのですが、ある面で科学は、人間の欲望を実現するために考えられ、使われてきました。そのために人は必死になってそれを発展させてきました。こういうのがあったらいいのに。どうしたらああいうのがつくれるだろうか。科学だけでなく、それに伴い技術が考案されるわけですが、その技術を可能にするために、科学的原理が探究されたのも事実です。
 
機械的な技術により始まった科学革命は、前世紀、生命科学へも斬り込むようになってきました。遺伝子なるものが見出され、仕組みが解明されていく中で、食糧問題の対策として有効視されるに至りました。子どもが欲しいのに生まれないという人のために、体外受精の技術が始まり、世界ではすでに何百万人もがそれで生を受けているといいます。当初は「試験管ベビー」などと言われて注目されましたが、実際には試験管を用いるのではないそうです。
 
しかし、その技術が人の命を創造することに関わるということは、宗教的にも倫理的にも、しばらくは問題視され続けました。それなりに科学者や国家どうしで了解をとりあっていますが、隠れて何が行われているのか、知る由もありません。また、「代理母」という方法は、技術的には可能ですが、日本では法律が整備されていないため、国内での実施は難しいとされています。
 
昔は、子どもが産まれない場合は、女性にばかり責任が負わされていました。しかし明確に男性に原因がある場合も多いと言われています。一般に人類の生殖能力が劣ってきている、という報告もあるほどで、少子化は必ずしも政治的な理由とばかりは言えないようにも思われます。牧師という職業も、ストレスが多いからかどうか分かりませんが、子どもが授からない、ということでいろいろ医療にかかっている例がいくつかありました。産めよ、増えよ、という神の言葉があると、よけいにプレッシャーがかかるのかもしれません。
 
映画『ポッド・ジェネレーション』の予告を、映画館で見たことがありました。新しい妊娠方法が開発されたのです。卵形のポッドで、妊娠状態をつくるため、女性はその期間も普通通りに働くことができるという、近未来の架空の物語でした。映画自体は、センセーショナルなものではないようでしたが、これは必ずしも空想物語ではないのかもしれません。
 
ポッド・ジェネレーションとは、そういう装置から生まれた子のことでしょうか。体外受精で生まれた人は、日本では11人に1人、というデータが最新のものとして発表されています。こうなってくると、映画の設定も、強ち空想だけのものだ、とは言えなくなる日がくるかもしれません。
 
女性が楽なのは間違いないとは思うのですが、子ども目線で捉えると、形はどうであれ、自分を産んだ父母というものは、自己の存在の根拠であることに違いはありません。
 

◆親と子

「親ガチャ」という言葉が、新語・流行語大賞のトップテンに選ばれたのは、2021年でした。その手の言葉は、すぐに消えていくものが多いのですが、これは妙に社会に浸透して、いまも使われることがあります。「子どもは親を選べない」という事情を伝える言葉だと思いますが、案外、それは当たり前のことだということで、わざわざ流行語などと言わなくても、社会的に認知されていいる、というわけでしょうか。
 
言葉と言えば、諺や慣用句がいま死滅の危機にあるそうです。子どもたちの知らなさすぎには、以前から驚かされていましたが、もう慣用句にしても、英単語や熟語のように覚えるものだ、とでも言わなければ、子どもたちを説得することができなくなりました。
 
「子を持って知る親の恩」は諺と言って差し支えないかどうか、は知りません。でも、子どもたちはともかく、大人には人口に膾炙している言葉だと思います。あたりまえのように通じた時代は、もう過去のことです。私もまた、なんとか結婚はしたものの、それだけではまだ自分は、親からして子の立場でしかありません。やがて私にも子が与えられます。このとき、私は初めて親になりました。すると、子育てをしながら、自分もこのように親に育てられたのだ、としみじみ分かるようになります。諺は、そのことを教えるものです。
 
先ほど映画の例を挙げましたが、これは実際に私が観た映画です。『そして父になる』、2013年の映画でした。日本国内はもちろんのこと、海外でも幾つかの賞を受けています。とくにカンヌ国際映画祭では、「エキュメニカル賞特別表彰」といって、キリスト教関係者から栄誉を与えられたといいますから、なかなか見所のある映画だったということになるのでしょう。
 
病院で、ある者により意図的に取り違えられた赤ちゃんがいました。かたやエリート建築家の一人息子で、教育熱心な雰囲気の中で育てられています。かたや決して裕福ではない電気屋の子たちのうちの一人で、素朴でのびのびとした生活を営んでいます。病院から事件のことを知らされ、今後どうするか、それぞれが悩むことになります。とくに福山雅治演ずる建築家のほうは、プライドなのかどうか知りませんが、非常に悩みます。
 
映画は、結果的にどうなったかの結論は見せません。あとは観る者に委ねるのでしょうが、「そして父になる」というタイトルは、なんとも不安定なものです。たぶんこのような極端な事例でなくても、男親というものは、やがて父になる、そのような過程を辿るものなのかもしれません。
 
私もすでに親目線が当たり前のような立場になっていますが、三人の息子たちは、それぞれに頼もしく成長しました。大きな問題も起こさず、それぞれに国立大学に進学してくれた親孝行者で、上の二人はいまや経済的にも、地に足のついた生活を送っています。
 
面白いのは、三人それぞれに、父である私のどこか何かを受け継いでいるのです。具体的にはあまり申せませんが、嗜好品や趣味、音楽に対する考え方や本の好み、そうしたものの考え方において、噴き出しそうになるくらい、受け継いでいるものがあるようなのです。実際に、私と会って、その配偶者が噴き出したこともあるくらいです。
 
もちろん、子は親を見て育つわけですから、知らず識らずのうちに、刷り込みがなされていたことはあるでしょう。しかし、いまや父となった長男が、苦労して授かった子どもに対して、それまでとはまるで人が変わったように、子煩悩に振舞うのを見ると、自分の子育ての姿を見せつけられているようで、恥ずかしくもなります。かつて「イクメン」という言葉が生まれたとき、私はすでにイクメンを普通にやっていたのです。もちろん私は、「イケメン」であったわけではありませんけれども。
 

◆系図

「汝の父母を敬へ」と、文語訳では書かれていました。口調のよい言葉です。これについてのメッセージを伝えようとしていました。それを神への礼拝とする場合、ここまで長い前置きをする必要はなかったとお叱りを受けることでしょう。甘んじて受けます。他方、私は、神の言葉を受けるときに、人間の側の思い込みや考え方というものを、一度反省しておきたい、と願う者です。現在の自分の心について無反省に聖書の言葉を聞くとき、自分の心が神の言葉を歪めて、自分中心に、自分の都合の好いように解釈してしまう危険を、知っているからです。ある程度の、心の掃除が必要であることを、ご理解戴ければ幸いです。
 
では、「父母」とは何でしょうか。私たちは、「父母」という言葉で、何を思い描くでしょうか。「生みの親より育ての親」というのも、さて諺なのかどうか判断は措くとして、昔は血のつながりよりも、情けや恩義というものを重んじることがあった、ということを示しているのだろうと思います。「養子」が実に多かったこともそれに基づきます。家系というものが、必ずしも遺伝子レベルでつながっているのではなく、その「家系」によって成立するものと想定されていたのではないか、と推測されます。私の家系も、少し上だと養子の連続であり、結局私の姓の先祖とは、私は血のつながりがないことが分かっています。
 
生物学的な親子関係、それが重視されるようになったのは、ひとつには、遺伝子なるものが明らかになったからではないか、とも思われます。また、生物にとり生命というのは、遺伝子のことだ、とまで口にする学者の見解もあります。遺伝子は、次々と身体という容器を乗換えながら、生き延びている、というのです。
 
しかし、例えば歌舞伎や落語のような芸能において、名人の遺伝子をもつ子が後を継ぐとは限らず、優れた弟子が名を受ける、という話もよく聞きます。このとき、師匠は弟子にとり父母である、という言い方もできようかと思います。
 
先ほど「家系」というものに触れましたが、新約聖書の最初の頁には、「イエス・キリストの系図」が載せられています。聖書を初めて開いた人が呆れて挫折しかねないようなつくりとなっていますが、これも、実は決定的に、血のつながりを欠いています。マタイによる福音書の系図は、イエスはヨセフの子、に位置づけられていますが、書かれているのは、マリアから生まれた、というだけです。系図は、ヨセフをここまで辿ってきていたのでした。この直後に、イエスは聖霊によって母マリアから産まれたことがこの直後に書かれてありますから、ヨセフとイエスとの間には、遺伝子的なつながりはないとしか言えません。
 
私たちがいま、遺伝子とか血のつながりとかいう考えで考える親子関係、父母というもの、その姿を、そのまま聖書の記述に重ねるわけにはゆかないことが分かります。
 

◆神の性

父について長らく触れてきましたが、マリアの登場もあったことから、母も含めて「父母」に戻りたいと思います。言葉において、それらは区別して使われることがありますが、私はその基準がよく分かりません。たとえば「発明の母」とは言いますが「発明の父」とは言いません。「音楽の父」はありますが「音楽の母」はありません――と思ったら、どうやらヘンデルのことをそう言うようです。バッハという「父」がいたためだ、とも言われますが、ちょっと違和感も覚えます。音楽家に女性がなぜか少ない、という事情に関係しているのかもしれません。
 
聖書では、神のことを「父」と呼んでいます。「母」とは呼びません。このことについて、いったい神には性別があるのか、と異議を唱える人もいます。フェミニズムの立場に限らず、神を「父」と呼んでよいのかどうか、それは確かに一つの問題です。聖書が、旧態依然とした「父」なる神の呼称を止めないことについて、だから聖書はだめだ、と攻撃する人もいます。但し、それは間接的には、男社会のことを攻撃しているのかもしれません。男を優位にするためにそうなっているとか、しょせん男が偉いと前提しているのだろうとか、厳しい見解をぶつけてきます。ご尤もです。
 
ここで思い出されるのが、遠藤周作。イエスの姿を、無力な者として描いた本は、カトリック教会から禁書扱いまでされたそうですが、「母なる神」という捉え方を提言したことでも知られています。理屈で切らず、温かく包みこむ母の愛を、聖書の神に重ねたのではないか、と言われています。おそらくは、自身の体験をも反映している、とも言われます。
 
しかし、聖書は、やはりさしあたり事実として、「父」という言葉によって、神を表しています。特にヨハネによる福音書を通して、父と自分との絆が前面に押し出されて描かれているのは確かです。言葉の上では、当時としては、どうしても男か女かを示さなければならなかったのでしょうか。
 
そのような言葉は、もっと日常にも隠れています。英語を教えるとき、HeだのSheだの、実質の性の区別に、はっとさせられるのです。その翻訳口調で、日本語でも「彼は」「彼女は」と訳さなければなりません。それが複数形になると、男女に構わず「彼らは」になるのは、男性優位であるのでしょうか。
 
policemanだのstewardessだの、性別を示す職業についての語は、英語社会でも排除されるようになってきました。日本語でも看護婦という言葉は使われなくなりましたが、いまなお女優や女流◯◯という言い方は、あまり問題視されないようにも見えます。
 

◆忌まわしき存在

こうして「父母」という言葉を巡って、自由に心の整理を長々としてきました。しかしすでに、不愉快の極みを覚えている方がいたかもしれません。ここまで、よくお聞きくださいました。気分が悪くなった方、申し訳ありません。よくぞ我慢してお付き合いくださいました。最初のところから、退出されてもよかったのですが、もう感謝しかありません。
 
父や母。その言葉に、誰もがよい印象をもっているとは限らない、ということです。憎しみの思いでその言葉を聞く人が、少なからずいることを承知しています。近年は「毒親」などという言葉も流行しました。忌まわしい思いすら懐きながら、親という言葉を聞かねばならない人が、世の中には確実にいるのです。が、それくらいで済ませられる問題ではない場合も、世の中にはあります。
 
もちろん、さらに傷つくようなことをしたくはないので、具体的な話は致しません。私もまた、子を傷つけたことが多々ありますが、子どもたちはなんとか健全に育ってくれました。しかし、親から受けた深い傷によっては、新たな信頼に向かう気持ちさえ殺いでしまうことになりかねません。
 
父母を敬え。そうは言っても、その父母もまたしょせん人間です。欠点もあれば、悪質な面を持ち合わせていることもあるでしょう。私も含めて、親という立場にある人が、自分自身のことを考えれば、確かにそうだろう、と思わざるを得ないはずです。
 
すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである――ハイデルベルク信仰問答には、この父母の件について、親の「欠け」について書かれています。子どもたちからは、私のような者も忍耐してもらっているのだなぁ、と思わされます。
 
ただ、そこには、従順に従うべきものとして、「よい教えや懲らしめ」という表現がありました。「よい」ものがもしもあれば、親には従うべきだ、という当然のことが書いてあるわけです。でもそこで捻くれた私は、「よい教えや懲らしめ」でなければ、従う必要がないのだ、というように捉えてみるとよい、とも思いました。そういうことが、何か傷ついた人の抜け出す道を探すきっかけとなれば、と願っています。
 

◆父なる神

しかし聖書は容赦なく、「父」という言葉を表に出してきます。イエスが父と呼ぶからです。特にヨハネによる福音書には、そのことがしつこいくらいに繰り返されます。「父」を信じること、「父」とひとつであること、その響きに耳を塞ぎたくなる人にも、それらが「神の言葉」として襲いかかります。割り切って聞く人もいるとは思いますが、私は、それぞれの人がどう捉え、どう乗りこえていくのか、適切なアドバイスをすることもできません。ごめんなさい。
 
神を「父」と呼ぶイエス。それは、表向きの言葉だけのことなのでしょうか。系図をユダヤの人は大事にしたようですが、マタイによる福音書の冒頭のイエス・キリストの系図でも、「父の子」というスタイルで、名前が連ねられていました。そこに女性の名は出て来ません。いえ、出てきますね。四人だけ、特別に。どの女性も、何か因縁のある、ただものではない存在でした。
 
しかし系図のような固有名詞でない場合は、「父」という言葉が、親子の「親」の言葉のように用いられているようにも見えます。ある意味では、それは仕方のないことである、とも言えます。「親」ではなく、その文化では、その場面では、「父」と呼ぶしかなかったのです。神を表現するにも、聖書の文面を綴った人々は、「父」という呼び名しか、考えつかなかったのでしょう。そういう、一種の「赦し」が私たちには必要なのではないでしょうか。そこに道を見出しても仕方がないのではないか。そう考えさせてください。
 
神は、何かしら父のような何かである、と喩えるしかできなかったのです。他方、大地のような母、海のように包みこむ母、そして命の基盤でもある母、それは「エバ」という名にも含まれています。それがまさに「命」を表し、また「生きるもの」とも見られるからです。
 
どう呼ぼうと、神は神です。人間は、自分を産んだ者を「親」と認識し、それぞれを「父」と呼び「母」と呼びます。その象徴的な意味をこめて、理解したいと思います。自分が生まれた原因、自分の存在の根拠、まさに自分を「創造」したひと、それが父であり母であるのです。
 
この父と母を敬え、ということが十の掟の中央のところにあることに、もう一度目を留めたいと思います。十戒の、凡そ前半が神について、後半が人について、というように、よく説明されます。しかし五番目のこの「父母を敬うこと」は、後半に数えられていることになります。いまひとつ、バランスが悪いではありませんか。
 
五番目の、親とは、ある意味で自分を創造した人たちのことです。この父母を敬意の思いで見上げるというのなら、その父母を通して、神の姿を見上げるというふうにも捉えることは、如何でしょうか。神とのつながりを結ぶ、という線を、そこに引いてみましょう。自分から親に向けて直線を引く。直線は端のない線のことですから、その線は親を超えて、その向こうにある神にまで到達する。この図式です。「父母を敬え」という戒めは、率直に言えば、神を敬え、というところにまで、その線は延びてゆくのです。
 
この戒めは、たんに「親孝行」の勧めではなかった、といまお話ししています。この五番目から人間世界の戒めだ、という説明がよくなされると言いましたが、私は、この五番目は、人間の父母であると共に、同時にまた神のことでもある、と示されているような気がしてならないのです。やはりこれは十戒の中央にあるべきもので、神のことでもあり、人のことでもあった、というように見たいのです。
 
「父よ」と祈ることを教えたイエスは、そのように神と人との接点にある方でした。このイエスによって、申命記が仄めかしていた「幸せ」というものに至る道が、与えられたのでした。あなたの創造者を覚え、その創造者とつながる「幸せ」をもたらすイエス・キリストに、目を注ぎたいと願います。

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