殺すことと生かすこと (出エジプト20:13, 申命記5:17)【十戒⑥】
◆神が殺せと命じる
「十戒」を一つひとつ受け止めています。後半に入りました。
ふと、考えてみます。「十戒」に「例外」はあるのでしょうか。
まるで憲法のようなものだとすると、例外があってはならないことになります。第一の「私をおいてほかに神々があってはならない」には、例外はないでしょう。「自分のために彫像を造ってはならない」も、やはりあってはならないと思われます。事実上教会に像が建てられていることもありますが、偶像としてはいない、と好意的に理解するなら、正にその通りです。第三は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」でしたが、まあそれも「みだりに」が利いていますから、それでよいとしましょう。
第四の「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」は、少し影響がありました。何を以て「安息日」とするか、の理解です。律法では第七の日としていましたが、キリスト教はそれを変換して、週の初めの日を安息日扱いとしてしまいました。さらに牧師が、月曜日を安息日とする考えも、ご紹介しました。例外があるようですが、主のための日を特別に考える、という点では、基本的に大切にするものだというふうに捉えられます。
第五には「あなたの父と母を敬いなさい」がありました。基本的にはその通りなのですが、親により不遇な目に遭っている子どもが、親を離れて生きる道を断つものでないことを願います。例外をつくってもよいだろう、という気がします。
さて、今回の第六の戒めは、こうでした。
殺してはならない。(出エジプト20:13,申命記5:17)
二つの「十戒」で、違いはない、と見てよいでしょう。実にシンプルです。条件もありません。たった2語で完結しています。しかし、これは例外を考えるどころか、自己矛盾を含んでいるような気がしてなりません。
そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」(出エジプト32:27)
これは、十戒を授けた直後のモーセの命令です。「殺せ」です。それはモーセの独断だ、と見ることも可能でしょうが、レビ記20:26では、神自らが「男であれ女であれ、霊媒や口寄せをする者は必ず死ななければならない。その者らを石で打ち殺さなければならない。血の責任は彼らにある」と、モーセを通じてではありますが、告げています。
実はその他、数え切れないほどに、神が「殺せ」と命じている場面が、旧約聖書には満ち満ちています。律法に従えない者は、死ななければならないのです。そしてこのことを否定すると、そもそもキリスト教自体が成り立たなくなってしまいます。ひとは、死にあたる罪を犯しているにも拘わらず、イエス・キリストがそれを贖ったのだ、とするのがキリスト教の「救い」であるのですから。
敵を殺して滅ぼせ。そうして約束の地を勝ち取れ。これがいまもなお、パレスチナ問題のの潜在的な原因となっているのも事実です。そしていま挙げたように、罪に対する死、すなわち「死刑」そのものが、「殺すな」に逆らっていることを、どう説明すればよいのでしょうか。
神自身が、「殺せ」と言っているのです。
◆目的語がない
死刑は、殺すことではない。そのように、言い逃れができるでしょうか。自分のしたことで自分が殺されるのだ。命には命、それにも合っている。そう言えば「殺してはならない」が成り立つと言えるでしょうか。
そもそもこの「殺してはならない」という端的な戒めは、何かしら不足しているものがあるような気がしてなりません。――何を殺すか、その「何を」という目的語が欠けているのです。他動詞であるわけです。思い浮かべてください。「~を」にあたる語を補ってこそ、「殺す」という動詞は使えるのではないでしょうか。もちろん、日本語では適宜言葉の省略が可能ですから、「首を絞めて殺した」というような言い方はあり得ますが、これも、「~を」が本来あるものを、言わなくても分かるから、と略していると思われます。
「殺す」は「~を」があって初めて、その意味内容が分かります。しかし十戒では、それがありません。単に「殺してはならない」です。だから、その「~を」を何にするかによって、話が違ってくるのです。
それとも、とにかく端的に万事すべて「殺してはならない」が正解なのでしょうか。人間は動植物を殺して食べて生きています。今日一日で、どれだけの命を奪って自分が生きているか知れません。「殺してはならない」を厳密に広くとると、絶対に守れません。
律法で定められている動物の生け贄からすると、イスラエルにおいてこれまでに生け贄として殺されて献げられてきた動物は、数知れません。「動植物のほかは、殺してはならない」というふうに規定し直しましょうか。確かに、「人を殺してはならない」なら、現代人にも理解できます。
しかし旧約聖書を見ると、先ほども触れましたが、敵を殺せ、と神は命じてきます。選民イスラエルでない者は、むしろ必要なときには殺せ。それだったら、「殺してはならない」は、人間にも例外をつくることになります。
そこで、イスラエルの同胞を殺してはならない、という意味だ、と考える研究者がいます。それが、あの「殺してはならない」で言いたいことなのでしょうか。安息日にはあれほど詳しくその背景を説明しておきながら、どうしてここでは説明してくれないのでしょう。法を犯した者については、死刑が規定されていますが、罪を犯したら、その時点でもう同胞ではなくなる、という理屈なのでしょうか。
神が人を殺すこと、これは十戒とはまた別の次元だ、と考えることもできるでしょう。人が人を殺してはならないのだ、と。イスラエルの邪魔をする民族を殺してよいというのは、実のところ神が人を殺したいところだが、イスラエルがその神の手の代わりになって殺すからよいのだ。そんなふうに考えることができるかもしれません。もしかすると、いまのイスラエルの紛争においても、そういう論理があるのか、あるいはまたそういう論理を陰に有っているのか、などと想像してみたくもなります。
そうなると、死刑制度も、神が人を殺すのだが、人間がそれを代行するのだ、ということになると理解できます。けれども、「殺してはならない」について、それはなんだか身勝手な解釈になりはしないでしょうか。いつでも「自分は神の代わりに殺すのだ」と言えば、正当化されるのです。昔、「天誅」という言葉がありましたが、あれは本当に正義だったのでしょうか。
律法でも箴言でも、死刑制度は普通に定められています。神の律法に反したから神が殺すことになる、というのは理屈かもしれませんが、すんなりとは呑み込めないような気がします。
酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗った当時中学生だった男が、小学生を次々と殺めた事件がありました。1997年のことでした。冷酷で残忍な殺害方法は世間を震撼させましたが、それが中学生の手によるものと分かり、世間は大混乱しました。大人たちは、なんたることだと喚きましたが、「命を大切にしよう」などと、ありきたりの掛け声しか出てきません。
事件直後、ニュース番組(ニュース23)では、若者の意見を聞こうとしました。そのとき一人の高校生が、「なぜ人を殺してはいけないのか」と大人に質問します。名だたる知識人がいても、誰ひとりとして、この問いに適切に答えることができませんでした。このことが社会的にも波紋を呼び、雑誌などでも盛んに議論されました。社会は、深刻さを増しました。
◆自分を神にする
哲学的にこの問題を考えた本があります。『死刑 その哲学的洞察』(萱野稔人・ちくま新書)です。詳しく本の紹介をしている暇はありません。ただそこには、死刑制度の問題点が挙げられていました。
日本人には、死を以て償うという道徳観が古来からあるようで、なかなか国家単位で、死刑制度の全廃には至りません。それは世界の趨勢から外れています。世界で死刑制度はなくなる傾向にあり、宗教的な理由で死刑制度を残すという理由でないとしたら、日本は特異な立場にあるようにも見えるそうです。感情的に、被害者に同情しやすくもなるようです。
但し、世界の傾向に抗うためには理屈が必要です。つまり、死刑制度がなかったら、凶悪犯罪が増えるだろう、という懸念がある、というのです。死刑制度があるからこそ、犯罪を抑止できる、という有力な理由が考えられるというわけです。
しかし、かの著者は言います。死刑制度は、犯罪の抑止力にならない場合が確実にある、と。それは、自殺願望のようなもので、死刑になりたくて人を殺す、という例です。そういうことは、現実に時折見られます。
その場合、自分が死を望むから、という動機の陰に隠れて、外から見えにくくなるのですが、人を殺すというときに、人間にはある特定の心理が働いているのではないか、と私は考えています。
それは、人を殺すとき、自分が神になる、という現象です。生殺与奪の権を握り、相手を二度と立ち直れなくしてしまう。二度と逆らうことができないように始末します。あるいは宗教的に言えば、相手を決定的な裁きをその手で与える、ということです。
しかし、聖書からすれば、そうしたことができる立場は、神しかありません。神だけが、人を殺すことをなし得るのであって、人がそれをすれば、人が自らを神とするようなことをしていることになるでしょう。それが「裁き」です。
イエスが、エリートたちの妬みを受けて、殺された――キリスト教の、いわば始まりの出来事です。イエスは、弱い立場の人たちの味方になり、多くの人の病を癒やし、食べ物を与える奇蹟さえしていたのに、権力者の声に載せられて、民衆もまた、イエスを殺せ、との大合唱を繰り返しました。十字架につけろ、殺せ、群衆は叫び続けます。このときにも、自分を神とするような心理的背景を感じることができるように思います。
神が人となった、という信仰は、この、人が神になろうとたことへの、徹底的な否定があったような気がしてならないのです。
◆敵を殺すこと
戦争は、自分が必ず正義だと考えるところから始まります。敵が悪い、だから敵は殺されて当然だ。この方向性は、必ず自分が正義であるという前提をもちます。それは、自分を神とすることだ、と言っても差し支えないように思います。
その戦争が始まったら、それがたとえ一方的な防御であったとしても、相手を殺さなければなりません。殺さなければ、自分が殺されます。
この点を楯として、軍備の必要を説く政治的立場があります。敵が侵入してきたとき、丸腰でいてよいのか、と迫るのです。同盟国の軍事力に頼り、それにおんぶしているだけでよいのか、と問うのです。そして、非戦の立場を主張する人たちに対して、あんたは愛する者が殺されることをよしとするのか、黙っているつもりなのか、とけしかけてくるのです。
戦争というシチュエーションでは、敵を殺すことは、禁じられるどころか、推奨されるし、結局、命令されます。敵を殺せば殺すほど、英雄になります。映画やアニメの世界でも、そう描かれます。敵の人権を尊重しよう、などというヤワなヒーローは、まずいません。
が、平和な世界では建前上、人を殺すことが正義だ、とは描きにくい情況にあります。そこで、しばしばその「敵」を、宇宙人にしたり、妖怪や悪魔などの姿で設定します。日本人なら、昔から「鬼」とでも呼んだのでしょうか。芥川龍之介など、その鬼の立場から桃太郎を悪役に見立てる発想で描いた作品もありますが、概ね、私たちは鬼を退治して、スッキリします。
つまり、感情移入できない仮想敵をつくり、それは殺されてもよいわけで、それを殺す者を英雄にする、ということで、人は爽快な気分になるというわけです。自分の思い描く通りに話が展開すれば、やはりここでも、自分が神になったような気持ちになれるのでしょう。
すると、現実の戦争でも、相手が人間であるにしても、それを鬼や妖怪扱いをするという方法をとるようになります。日本でも「鬼畜米英」という言葉が正にそうでした。恐ろしい敵は、異質なもの、異形のようなものとしてセットすることで、それを殺すことに、呵責を覚えないようにするのです。
◆過失致死
「殺してはならない」という、十戒の要であろう中央部にある規定を、今日は聞いています。しかしあまりにも短いその規定に、私たちは戸惑っています。いったい何を殺してはならないのか、明確でないからです。そこで、律法の具体的な記述に目を向けることにします。十戒が憲法であるとすると、数々の律法は、具体的な法律に相当するからです。
人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない。(レビ24:17)
シンプルな法です。そしてここには例外や注釈のようなものは書かれてありません。しかし旧約聖書の律法は、過失致死をも考慮しています。この後引用しますが、非常に具体的な例を描いて、意図して殺したのではないが、結果的に被害者を出してしまった、という設定を示します。しかしそれは死罪にはあたらない、とするのです。ただ、被害者の親族は復讐にくるでしょう。過失における事件では、加害者は殺されるまでのことはないとするのですが、被害者感情は収まりません。そのために、いわゆる「逃れの町」が定められています。非常にユニークな配慮だろうと思います。
あなたがたが定める六つの町が逃れの町となる。すなわち、ヨルダン川の向こうに三つの町を定め、カナンの地に三つの町を定めて、これらを逃れの町とする。(民数記25:13-14)
これは、過失致死を犯した者が、復讐されないために安全地帯に逃げてよい、という意味です。その事例が、具体的に描かれています。
人を殺した者がそこに逃れて生き延びられるのは、隣人を以前から憎んでいたわけではなく、過って打ち殺した場合である。例えば、隣人を伴って木を切りに森に入り、切ろうと斧を振り上げたとき、斧の頭が柄から抜けて、隣人に当たって死んでしまったような場合である。その者は、これらの町の一つに逃れて、生き延びることができる。(申命記19章4-5)
命まで奪わなくても、身体的な損害を与えたときの賠償規定なども定められています。イスラエルの律法は、かなり実用的であっただろうと推測されます。が、ともかく「殺してはならない」ことに対して、過失致死は、抵触しないように見えるのです。
現代の交通事故でも、過失致死扱いが多くなります。もちろん、意図的なものは殺人罪となるでしょうし、危険運転致死傷罪には特別な罰則が定められています。「未必の故意」という観点も考慮される場合があると思います。
技術の進歩のせいなのか、また様々な関係者の努力が実ってか、交通事故の死者は、一時よりはずいぶん減ってきました。1970年には国内で16,765人という最多数を記録していますが、2022年には2610人でした。
しかし、この数字には必ずしも安心できない背景があります。交通事故の死者数は、事故後24時間以内に死亡した場合の数字という規定があるからです。そこで、30日以内の死者数と比較してみると、概ね6:7くらいになるように見えます。発表された死者数より多い人が、事故後1カ月以内に亡くなっているという現実があるのです。いまなお五千人を下らない数の方々が、毎年命を落としていると推測されます。一日に15人ほどでしょうか。
いつ自分が加害者になるか分からない世の中です。端的に「殺してはならない」で死刑ということでないのは、ありがたいことではあります。が、被害者とその家族にしてみれば、たまらないものがあるのも事実でしょう。
◆心で殺すこと
生命を奪うことだけを「殺す」と呼ぶのは、言葉の厳密な使用法からすれば、正しいことです。が、もっと比喩的にも、私たちは「殺す」という言葉を使います。
近年、それがより安易にできるようになっていることが、社会問題化しています。ネットの世界、特にSNSが大きく取り上げられますが、言葉によって、人を殺すことです。嫌な経験をされた方もいるでしょうから、露骨に具体的に挙げることは控えますが、実際に社会的に人を殺すことさえできる世の中ですし、精神的にであれば、いわゆる「誹謗中傷」ということで、横行していると言っても過言ではありません。そのために人を追い詰め、自ら死を選ぶように追い詰めるとなると、これは現実的に「殺人」である、という理解がなされるようになってきました。
自分の心の中で人を憎むだけでは、人を殺すには至りません。しかしいまや、ちょっとネットに書きこむだけで、その言葉は世界中に拡散してゆきます。他人を刺激し、一斉砲火を浴びせることにつながることも、稀ではありません。
しかし、イエスは「山上の説教」で、このようなことを教えていました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。(マタイ5:21-22)
この言い方は、「きょうだいに腹を立てる者」は「人を殺した者」である、という意味に受け止めざるを得ません。心の中で人を憎むだけで、「人を殺す」ことだ、というのです。だとしたら、私たちは、心の中で、毎日何人もの人を殺していることになります。
現実に殺してなどいない。確かにそうです。精神の自由、思想の自由だ。確かにそうです。現実にそれを法律で罰することはできません。立証もできないし、それをすると全世界の人が犯罪者となり、法廷どころではなくなるでしょう。
だから、「腹を立てる者」を「人を殺した者」と見なすことがナンセンスである、とすべきでしょうか。そのような規定は、私たちにとり、どこまでも「他人事」なのでしょうか。
私は私の中で、このイエスの言葉を受け止めることができるでしょう。そして祈ることができるでしょう。「今日私は、心の中で人を殺しました。どうか人を殺した私を赦してください」と祈ることが、少なくともキリスト者には、できるでしょう。いえ、そう祈らなければならないのではないでしょうか。
私はこうして、すでに人を殺しました。だとすると、「殺してはならない」という十戒は、その私に、どのように適用されるのでしょうか。心の中で、私は人を打ったのです。「人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない」という掟は、私を見逃してくれるのでしょうか。
◆赦しと命
この、心の中での殺人は、過失ではありません。「殺してはならない」から逃れることはできません。そして凡そ誰も皆すべて、そこから逃れられる人はいないでしょう。だったら、私たちは皆死なねばなりません。そう、人間は死なねばならないのです。肉体的に死ぬのです。アダムの罪が、人間すべてに及んでいるのです。
その死は、永遠の死となるのでしょうか。それとも、そこまでは堕ちていかずに済むのでしょうか。そこに、「救い」となるのが、「赦し」です。これが、ターニングポイントとなります。「死」からの「救い」、その転回点に、「赦し」というものがあることを、見過ごすことはできません。
イエスが「山上の説教」で、罪を犯した手を切り落とせとか、目をえぐり出せとか、激しいことを言いました。奇想天外なことかもしれません。現実にいちいちそれをやってはいられないだろうと思います。しかし、それほどに、私たちは罪の性を有っているのです。自分の罪を自覚せよ、とイエスは厳しく迫っているのは間違いありません。
自分の罪は、自分では実に軽く考えてしまうのが、人間というものです。しかし、私たちはつねにすでに、心で人を殺している、そのことにいま気づく機会が与えられました。「殺してはならない」という十戒は、私たちをいま、「赦し」を契機として、「救い」への道へと連れて行こうとしています。
「殺すな」の規定が「赦し」と結びついている。このことを強調して説くことが必要です。もしかすると、あまりお聞きになったことがないメッセージであるかもしれません。
私たちは自分に甘いものです。そして、他人には厳しいものです。これも敢えて実例を持ち出す必要はないだろうと思います。また、聖書を少しでもご存じの方でしたら、聖書の求めている方向性に相応しくないことは、ご理解戴けるだろうと思います。自分に甘いと言うことは、自分が自分の刑を軽くする、ということです。
「殺してはならない」という戒めは、目的語や条件のない、端的な規定でした。どういうときには殺してもよく、どういうときには殺してはいけないか、そうした細かな条件を定めていない、シンプルな命令でした。それでは曖昧だ、どうしてよいか分からない。私などは、そのように困惑しました。でも、端的で曖昧だからこそ、この戒めには重大な異議があったのだ、と気づかされたのです。
ひとは、「殺してはならない」と言われたときに、自分に対して言い逃れができない、ということが分かったのです。自覚できたのです。すると、自分に言い訳し、甘くすることが、できなくなるのです。自分で自分を許す、というわけにはいかなくなるのです。
この十戒の命令は、自分は確実に殺しをやっている、というところに、ひとを引きずり出します。それと共に、誰もがそうなのだ、という人間の現実を知ることになります。私は、イエス・キリストにより赦されたではないか。赦されて、こうして死なずに生きているではないか。そう思うとき、あの人も、この人もまた、イエス・キリストにより赦されているのだ、ということを深く知ることになるのです。
もちろん、人殺しをすべて赦すべきだ、というようなことが言いたいのではありません。そのような社会運動を始めよ、と計画したいのではないのです。私は、「殺してはならない」を守れていない第一人者です。だから、罪人としての私は死んだのです。罪が私を殺しました。しかし、私は生きています。生かされています。私は赦された罪人なのです。誰が赦したのか。そこに、イエス・キリストが現れます。そして、このイエスを殺したという点で、私は確実に、「殺してはならない」を犯しました。これなくしては、キリスト教信仰は成り立ちません。このことだけを、確かなこととして、十戒を受け止めることしか、さしあたりいま私ができることはないのです。
それは、ひとを生かす言葉をここにもっている、ということを意味します。旧約から新約へとつながる聖書の言葉が、ひとを生かすのであり、光を与える、ということを意味します。「殺してはならない」との言葉もまた、あなたを生かすのだ、と声をかけずにはおれなくさせるのです。「殺してはならない」は、ひとを生かす言葉となってゆくのです。これが、「福音」の力にほかなりません。
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