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『ボクはこんなふうにして恵みを知った』(河村従彦・いのちのことば社)

コロナ禍の2020年秋、感染拡大が穏やかになったころ、久しぶりに映画館に出向いた。妻が観たいと言った「星の子」である。芦田愛菜が久しぶりに実写映画に出演したという話題性もあったが、そのテーマが大変気になった。
 
それは、赤ん坊だったちひろの病気が治った、いのちの水に関する新興宗教にのめりこんだ親のもとで、中学三年生となったちひろが、その宗教信仰に引っかかりをもつという物語である。しかしいわばそれが身に染みたちひろは、その宗教を外から見ることはできないし、両親はどっぷりとその世界の中にいる。ある意味で何も変わらないままに乗り越えていくような形になるのだが、親の信仰を子どもがそのままに受け継ぐとはどういうことなのか、痛みをもって考えさせてくれるものだった。
 
キリスト教会では、安易に「信仰の継承」と言い、親が信仰をもっていれば、子どももキリスト者になることは当たり前のように見なしているように窺える。逆に、子どもが教会から離れると、親の信仰姿勢まで疑われかねない雰囲気さえもっている。だが、映画は、新興であるか伝統的であるかという違いだけで、教会の姿がそこに描かれていると言っても過言ではないものだったと受け止めるべきであるとしか思えなかった。教会に行く人が、世の中ではどのように見られているか、もしかすると「敬虔なクリスチャン」だと皆が見ている、などと能天気でいるのだろうか。そんな存在ではないことは、自分自身が一番分かっているのではないのか。
 
本書は、たまたまこの映画の封切りと同じ頃に発行された。クリスチャン二世あるいは三世という立場の子が、どんなふうに信仰をもつのか。また、彼らに対して、一世である者がどんなに間違った圧力をかけており、また誤った理解をしているのか、それを思い知らせるための一冊である。その二世が、どのような言葉が重荷になり、何を言われたらどう感じるか、という具体的なケーススタディを、本書はずばずばと指摘してくれていた。まことにありがたいものである。
 
著者は牧師であるが、牧会心理学というような、キリスト教世界の中でしか通用しないような特殊な分野ではなく、一般的な臨床心理士としての資格を持つに至った人である。それを活かして、キリスト教のカウンセリングセンターでも活躍している。心理の理解についてはいわばプロである。だがそれ以上に、著者は、牧師家庭に生まれ育った自身がその二世として苦しんだ経験をもっている。これが一番のポイントである。自身が傷つき、経験した思いを、しかしそれだけにより判断するのではなく、学問的根拠を用いつつ、淡々と「です・ます調」で語っていくものである。様々なケースで大人の態度のよくないところも指摘しながら、最後には本書のまとめも掲載しながら、祈りをもって終わるような印象である。
 
教会でありがちだが、部活などで教会に来なくなった信徒の子弟(このような言い方自体がどうだかというわけだ)に、よく来たね、などと教会員が声をかける場面がある。著者に言わせれば、これがNGなのである。そのメカニズムが気になったら、どうぞ本書をお読み戴きたい。そういう部分に教会が気づかなければならないのは事実である。大人の都合のために若者があるのではない。そんな目的で接しているようであれば、若者のほうはほんとうに教会に居場所がなくなってしまうのである。
 
これは、教会にいる大人がぜひ読まねばならない本だと私は感じた。そして、それなりに配慮しているつもりであった自分が、やっぱり当の本人の気持ちを理解できていなかったこと、そして理解しようとしていなかったであろうことを、痛感させられたのである。まさにそのサブタイトルである「クリスチャン・ホームのケース・スタディ」とあるように、「救いの経験」を軸に、人格形成という心理学的な概念を交えながら、信仰というものを改めて問うものとなっている。
 
いやはや、人を愛するというのはどういうことなのか、具体的に迫ってくるような思いがして、読む私も痛くなったが、それどころではない、二世三世の彼らのほうが、何倍も痛く過ごしてきたのである。心を尽くして愛する一歩として、この本の指摘を胸に刻んで、また改めて若い世代と共に歩み始めたいと強く願うばかりである。

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