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背負い、担い、救い出す

2024年の敬老の日という国民の祝日は、9月16日である。この時期に、教会でもその趣旨を受けた礼拝を開くことがある。ここでは9月8日にそれが行われた。
 
教会でも高齢化が進み、敬老の祝福の対象が、60歳だなどということもなく、80歳になってようやく、ということになった。驚くことに、80歳以上の方が、80名以上いるという。だが、悲しいことだが、この1年で6名の方が地上の教会から名前を外すこととなった。
 
説教者は、黙示録の連続講解説教の牧師ではない。その最終回は次週となる。まず、ローマ書の引用から説教内容は始まった。
 
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38-39)
 
説教の趣旨は、落胆しないということのようだった。確かに年齢を重ねると、姿は衰えてくるだろう。だが、内なる人はそれと同様に衰えるとは限らない。人は、神の霊を受けることにより、外から見たままのものとは違う命を、内に宿すことができるのである。
 
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(コリント二4:16)
 
さあ、イエス・キリストを見上げよう。すると、立ち上がることができる。神が、立ち上がらせてくださる。説教者はわざわざ付け加えなかったが、この「立ち上がる」という言葉は、新約聖書では基本的に「復活する」という言葉と同じであるはずである。あるいは、正確に捉えるならば、「復活させられる」である。イエスは自分から、ジャーン、と復活したのではない。「復活されられた」のである。
 
この角度から、年齢によりもし肉体に不安が増してきたとしても、霊においては弱る必要はないのだ、ということが、この後語られてゆく。神学者や牧師の言葉をも引用して、豊かなイメージを提供するのだが、特に後者において、「集められる」という概念を繰り返していたことが印象的であった。
 
キリストの許へ、神の許へ、私たちキリスト者は集められてゆく。そもそもが、名前を呼ばれているのであり、この場合「呼び集められる」と理解してもよいと思う。羊飼いが羊の一匹一匹を名前を呼んで大切にするように、神は私たち一人ひとりの名前を呼んでくださり、そのようにして羊の囲いの中に集めるのである。
 
すでに召された教会の高齢者も、こうして集められ、神の懐に迎えられていった。私たちはまだここにいる。地上を旅する「今日」を生きているのだが、まだこれから、地上で役割があるようだ。残された多情の旅の日々において、今日がその「最初の日」なのだ、ということを、説教者は強く示した。
 
まだ使命があるはずだ。だから、先行きがどうなるということが問題なのではなくて、与えられる一日また一日が、常に新しいものとして目の前に現れることに、目を見張っていたいものである。このとき、私たちは、主から注がれた恵みを、あの賛美歌のように、絶えず数えようではないか。数えるというのは、数で敬作をするという意味ではない。恵みというものに注目してそれと認識し、自分の心に神の愛を刻もう、ということであるに違いない。
 
聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。/あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:3-4)
 
年老いても、神は神のままで変わらないのだ。イザヤの預言は、年齢を重ねたキリスト者に慰めの言葉として響く。支える力となって響く。説教者は特にこの中で、最後に立て続けに並ぶ3つのプロセスに目を留めた。「背負い、担い、救い出す」という神のなす3つの業である。
 
この約束は、高齢者にはもちろん、若き者にもひとしく語られている。「母の胎を出た」者には皆、語られている。そのときから主はあなたを担ったのだ。そのときから主はあなたを運んできたのだ。これからあなたが年老いていっても、なお主はあなたを運ぶのだ。それをさらにまとめると、「背負い、担い、救い出す」という3つの神の業が際立つというわけである。
 
これは約束である。一人ひとり、これを神からの言葉として聞く者すべてに向けて、語られている。
 
  ある夜、わたしは夢を見た。
  わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。……
 
「FOOTPRINTS(あしあと)」という詩である。これを初めて聞いたとき、キリスト者は誰しも涙するのではないかと私は思っていた。説教者は今日、これを改めて読み聞かせた。思うに、この詩に描かれた信仰が、説教者の信仰と強くつながるのであろう。独り異国で福音を説くというのは、神の召命を受けてではあるものの、人間として、心細さや寂しさがあるかもしれない。
 
この詩も、「主が共にいる」という約束を主がしてくださっていたにも拘らず、人生の苦しいときに、主は私の横にいてくださらなかったではないか、という叫びを含んでいる。まさに、孤独を感じたのである。しかも、神不在の孤独である。これは厳しい。不信仰だと罵られるかもしれないような、信頼を欠いた感情である。が、主の約束は、人の思いを超えて、「共にいる」という真実を貫いていたのだった。
 
詩をご存じない方がいてはいけないので、そこから先はここでは明かさない。ただ、自分の辛い経験について、神は知らないと突き放すようなお方ではない。必ず共にいてくださる。神はあなたを、「背負い、担い、救い出す」のだ。必ず、「背負い、担い、救い出す」のである。
 
神は旧約聖書でも、このイザヤ書のように力強い言葉を与えてくれていた。この約束は、イエス・キリストの現れによって、確かに現実のものとなった。神の言葉は実現するものなのである。
 
どんなに肉体が衰え、またたとえ朽ちたときにも、神の約束は変わらない。神の真実は、人の思いを超えている。「背負い、担い、救い出す」という神の約束を信じて生きたい。日々新たにされてゆく神の霊に身も魂も委ねる者でありたい。
 
さて、説教から受け取ったことは、以上のような恵みであったのだが、人間的にかもしれずとも、心動かされたことがあった。
 
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:3)
 
「白髪になるまで」という表現がここにある。説教者も、軽くではあるが、この点に複数回触れていた。もちろん、これは高齢になる、という意味の比喩のようなものである。ユダヤ文化では、高齢者を敬う道徳があったものと思われる。箴言を見ても、そうしたことが明確に現れている。逆に言えば、敬うことに難儀があったために箴言となっているのかもしれないが、ここは素直に見ておこう。その高齢者の象徴が、白髪という形で言葉にされているのである。
 
黙示録を語ってきた教会の主任牧師は、実は白髪である。そして、いまの時代では、もはや高齢者とは決して呼べない年齢である。礼拝の司式を本日は担当している。だが、最後まで、このイザヤ書の「白髪」については全く何も触れることはなかった。
 
当たり前ではないか、言われるかもしれない。そう、当たり前である。これは説教で語られた「白髪」である。神の言葉が出来事となる場所で触れられた「白髪」である。現実の人間の「白髪」とは何の関係もない。だから、牧師の白髪とこの聖書の言葉とを結びつけるなどということは、凡そ聖書を神の言葉として聴くという信仰から外れている。だから、当たり前なのである。
 
だが、別のある教派だったら、恐らく高確率で、この「白髪」をネタに一言触れたはずなのである。そして、会衆を笑わせることになる。つまり、ウケを狙って、自分は白髪ですからずっと背負われているのです、というような「洒落たこと」を言ったはずなのである。
 
なにしろ、自分が説教の原稿を部屋に忘れたことに気づいて、取ってきます、と2分余り説教に穴を開けたばかりか、このことを翌週、今日は忘れていません、などとにやりとしながら笑いをとることで和むような、「説教」が、そこでは日常となっているのである。
 
私も、いつの間にか、それに毒されていたかもしれない、と猛省する。何か気の利いたことを言って、笑いをとるのが、サービスだと思ったことが、あったのである。しかし、そんなリップサービスは、説教には要らない。説教は、別のサービス、つまり礼拝のためのものなのである。この「白髪」のところから、それを痛烈に教えて戴いたことを、私は今後忘れはしないだろう。

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