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命ある草と木が生まれた日

創世記1:10-13 
 
水を中心とした世界を経て、第三の日、陸なる地が脚光を浴び、草と木のために神の創造の業は一日を費やすこととなります。食物連鎖から考えて底辺にあたり、動物の生命を支えることになる生産者と言われています。このとき、光合成のための太陽がまだ造られていないから矛盾だ、などと言うのは無粋ですね。そういう問題ではないのです。
 
草と果樹とを神は区別します。共通項はあるものの、単なる種をつくるだけなのか、種を含む実を生むものなのか、その成らせるものによって二分しています。実を結ぶというのが木ですが、聖書全体において、この実を結ぶという捉え方は大きな意味をもって登場します。御霊の実もそうですし、そもそも実り自体が神の祝福とされていました。
 
草の方は、少しの間だけ現れて、すぐに滅んでしまうものとされました。草は枯れ、花はしぼむのです。はかないものであり、しっかり立つことすらありません。木は比較的に長く生き、上へ上へと生長していく者です。よく育てば実りが豊かになり、実を結ばなければ切り倒されてしまうか、薪として燃やされてしまいます。
 
いずれにしても、人間が切り倒し燃やすだけに留まらない理解が必要です。人間自身が、この木であると見て、人が実りに応じて神に切り倒され処分されてしまうことを考えなければなりません。人が、万物の上で神の如く君臨する様を示すと共に、人は神のもとにあるべきだとしています。神はこれも見て、良しとされています。
 
人がこの木のように実を結ぶということへの期待があるように受け取りたいのですが、難しそうです。でもそれを、新約聖書まで見渡すことによって、私たちにもそれができるかもしれないという勇気が与えられます。私たちが何もしなくても、イエス・キリストがそれをしてくださるからです。私たちを使ってしてくださることを願いたいものです。
 
それに対して、滅びるしかないような姿の草、かろうじて種という形で次世代をつなぐのがせいぜいであるような草というものに、光を当てた方もいます。明日滅びる草花を美しく着飾らせて下さった神を教えたイエスです。命は大切ではないか。美しいではないか。第三日は、この命が生まれたことを記念するべき日となりました。

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