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伊集院光さんに学ぶ

「伊集院光の100年ラヂオ」をお聴きの方も多いだろう。
 
ラジオ放送が1925年に開始したことは、歴史を学んだ中学生なら皆知っている。それが大きく世界を変えたことの意義までは学ばないが、この年は三つの出来事によってかたどられ、記憶されることになっている。そして来年がそこから百年の節目である。
 
それで2023年4月から、NHKに残る音源を発掘して紹介し、ラジオ放送について振り返るという企画が始まっている。毎週日曜日正午前に、伊集院光という優れた解説者を伴って、放送されている。私は専ら後からそれを聞き、録音してまた楽しんでいるわけだが、貴重な音源と共に、時代を考えるというひとときとしても、こういう放送があることを感謝している。
 
時に、聴取者から音源はないかと募る。それが放送されたこともある。なにしろ、NHKには過去の音源が、それほど多く残されていない。中には、私も話には聞いたことのある、伝説の番組というものも、実際にこうだった、という音を聞くのは、これが初めてである。最新では、「君の名は」の第1回を、聞いた。30分ほどあったのだ。真知子と春樹のすれ違いの初めである。NHKには、この初回と、最後の97回と98回しか残っていないという。
 
山田耕筰や三島由紀夫の肉声にも出会えた。特に三島の場合は、高校生がインタビューしているのだが、この質問がなんとハイソなことか、びっくりであった。番組名は、なんと「高等学校の時間・国語教育」なのである。エノケンの場合は、朝ドラ「ブギウギ」に関してであったろうし、当然笠置シヅ子のインタビューもあった。
 
昔の「時報」がどういうものであったのか、を特集したこともあった。幾多のラジオドラマの一部も聞かせてもらったし、演芸番組、クイズ番組やのど自慢系統も、全く知らないようなものが多々あった。宮田輝さんなどの、絶妙な司会も味わわせてもらった。
 
こうして挙げていったら、際限がない。そのリストがウェブサイトに公開されているから、ご覧になると、あれやこれやと楽しくなってくるのではないだろうか。
 
それはともかく、この伊集院光さんの才覚については、常々驚かされるばかりである。よく毒舌などと言われるが、それは思ったことを正直に口にするからではないかと思う。そして、ほかの人が気づかないことを指摘したり、奥歯に物が挟まったような言い方しかしないところをはっきり言ったりするだけではないか、という気もする。この番組でも、様々な人に最大原理のリスペクトを払っていることがよく分かるし、当時のことについても、事実と意見とをはっきり区別しながら、聴取者に過った情報を流さないように、よく気を使っている。
 
よほど下調べをして、原稿を用意しているのではないか、筋書き通りに話しているのではないか、と思われるほどにすばらしい「解説」をしているのだが、これについては、同じくNHKで長く担当している、「100分de名著」の司会についても同様である。
 
伊集院光さんは、高校在学中に三遊亭楽太郎に弟子入りし、卒業直前に高校を退学している。つまり、高校卒業という「学歴」がない。だが、この人は実に頭がいい(そもそも学歴とそれとは直接関係がないが)。理解力もさることながら、その理解したことを、自分の体験や、ラジオで寄せられた声の中から一瞬にして探り出した事柄と結びつけて、説明ができる、という素晴らしい表現力をお持ちである。私も多少そういう心得はあり、それが大切な能力であるということは知っているが、自分ではそこまでの体験や適用力はない。しかし伊集院光さんは、未知の事柄を提示されたてきに、それができるのである。
 
「100分de名著」では、文学を読むことも多い。すると、こうした体験と重ね合わせる、あるいはつなげて理解する、ということもあり得るだろうと思う。それなら、まだ分かる。だが、私は現に目の前で見ているのだが、カントの『純粋理性批判』やハイデッガーの『存在と時間』についても、難解で苦笑いしながらも、「ぼくにはこういうことがあったんですが、そういう理解でいいんでしょうか」などと言った話が出てくると、それが実に的を射ているのである。ローティを今年担当した講師の朱喜哲さんは、そのツイートで、伊集院光さんは、やらせなどしていない、全部本当に自分の理解で返してくれるのであり、しかもその返しがものすごく的確で、驚くばかりである、というよなことを明かしている。他の講師も、深く肯くのはもちろんのこと、時折、それは考えたことがなかったが本当だ、教えられました、などという反応さえ見せる。傍で見ていても、唸ることしきりなのである。
 
才能と言えば、それまでだろう。だが、この人の強みは、自分の経験をとても大切に蓄えていることと、ラジオというメディアで、特に若い人たちの本音をまともに浴び、またそれに応えるということをずっと繰り返してきたことで、他人の経験までもが、自分の血となり肉となっているところにあるのではないか、というふうに私は捉えている。とにかく自分や他人の体験を、よくよく深い体験として実感し、噛みしめているのだろうと思う。噛みしめているからこそ、それを抽象した哲学的思考にも適用できるのだ。この辺りは、簡単には説明できない気がするが、このことは、信仰についても言える。
 
信仰の体験がなく、習い覚えた信仰の教義をオウム返しに口にするだけの人が、たとえ流暢に原稿を読む説教をしても、何も心に響かない。しかし、たどたどしい言い方であったも、真実の出会いと体験を信仰においてもつ人が、メモ程度の原稿を基にして説教すれば、ちゃんと響いてくる。これは聖霊のはたらきであるから、ごまかしようがない。こうした人を教会から追い出して、前者のタイプを招いたような教会さえあるが、完全に間違っている。
 
その中には、聖霊を受けた方もいるだろうから、この真実に気づいている人もいると思う。ただ、教会には、それが分からないがとにかく偉い人物がいて、それに逆らうようなことはできない、と、信仰の正しい表明ができないでいるのだろうと同情する。だが、人に従うよりは、神に従うべきだ、というスピリットを大切にし、聖書が導く生き方を選ぼうとするならば、いまからでも遅くはない。あなたに神が示された、正しい霊の示すものを、表明なさるとよいと思う。あなたの信仰を、つまらないことのために台無しにしないがいい。聖書をよくお読みになり、聖書を大切になさるといい。命の道を信じるならば、その道を進むようになさるといい。本当に、そう思う。

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