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ゆっくりと読む本

持ち歩き用の本と、家で読むための本とを、区別している。そして私は、並行読みをするタイプだ。一冊の本に熱中して、一日中そればかり読む、ということは、まずやらない。一冊について10頁以上をノルマとして、ちまちまと読むのである。
 
もちろん、その本のタイプや内容により、ノルマは様々である。なかなか簡単に読み進めない哲学書でも10頁以上を読もうという目標のようなものである。このコロナ禍のお陰で(という表現が適切かどうかは分からないが)、家にある全集の類を全部読み通すことができた。一部は読んでいたが、全部を読んだというわけではなかったからである。
 
小説は昔から苦手だが、それでも常にひとつはリストに入れておこうと意識している。文庫だと持ち歩けるので、電車の中で立ってでも読むことができる。図書館の本でなければ、たいてい定規に沿ってボールペンでラインを引きながら読むようにしているので、シートに座ってでなければ読めない。逆に言えば、通勤電車の往復で、乗り換えを考慮して、座れるかどうかを想定して、ラインを引くべき本と、引かない本とを選んで持ち歩いている、ということになる。
 
もちろん、大きいサイズの本は、必ず家で読むというふうにするなど、言わば適材適所を心がけている。そのバランスを考えながら、読む本を起用していることになる。そのため、読みたくて買ったものの、起用されずにベンチを温めている本もある。理想主義ではなくて、実用主義で読書をしているようなものである。しかしそれを嫌だと考えているわけではない。「ケセラセラ」である。否、楽観的というよりも、どこか努力を前提とする「なんくるないさ」に近いだろうか。
 
本は、読みたいものをリストアップしている。中古本であれば、値が下がる場合がある。あるいは、値の下がったものが現れる場合がある。そのときに買うのである。だから、まさにいま読みたい、というものをどうしても買う、という姿勢ではない。このことが、私の読書方法を動かしているのかもしれない。
 
それでも、中古本は、誰かに買われてしまうかもしれない。買われても仕方がない、という思いの本はそのまま待てばよいが、これはどうしても読みたい、という熱情の伴うものは、価格の低下を長く待つことはできない。しかしこちらには予算というものもある。懐具合のバランスも考えながらではあるが、頃合いを見て、清水の舞台から飛び降りたつもりで、高いものを買うということもあった。Amazonのポイントを溜めておいて、だいぶ値引きできる情況というのも、考慮に入れてのことだった。
 
クラドックの『説教』が、それである。以前狙っていたが、今度買うぞ、と思ったとき、さる人に買われてしまった。著名な方がSNSで買った、と挙げていたのが、それだった。その後、また何年かして、条件が揃ったので、ついに手を出した、というのが先月であった。
 
説教は、神の言葉を語るものである。神の言葉は命の言葉であって、ひとを生かすものである、と信じている。礼拝では、その説教が語られる。ずっと、そう信じていた。だが、世の中は広い。説教など、何の意味もないお勤めだという感覚が当然の教会も、あることを知った。いくら私が、説教はひとを生かす命の言葉です、と言ったところで、それが全く通じない教会が、世の中にはあったのだ。
 
もちろん、個人的には、説教を大切に考えている人は、どこにでもいるだろう。生きた説教を求めるということで、お声がかかったこともある。ありがたいことだが、いろいろ難しい事情もあるので、保留されているが、しかし、そのように礼拝の中で説教を大切に求めている、というのは、渇き求めている、と私の側が決めるのは失礼であるかもしれないにしても、やはり神の言葉を大切にしている信仰であるのだろう、と好ましく思う。
 
しかし、神の言葉などどうでもよく、人の言葉にしか興味のないところは、残念ながらもはや教会とは呼びたくない。私は神の言葉を聞きたい。神の言葉に生かされることを望んでいる。その機会を与えてくださった方々には、心から感謝している。そしていま『説教』をゆっくりと読みながら、神の恵みの受け方を教えて戴こうと努めている。副題が、「いかに備え、どう語るか」ではあるが、当然、聴いてその説教の深さに気づくためにも、力となるだろうと信じている。

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