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たしかにA、しかしB

中学入試の作文を指導している。その中で、便利なフレーズとして「たしかにA、しかしB」の形を覚えてもらうことにしている。「別の意見のよいところを認めた上で、それでも自分はこちらがよいと思う」という場合の常套句である。
 
日本語だと「たしかに」の代わりに「なるほど」もよく使うだろう。小学生には似合わないので「たしかに」で教えている。これが英語だと、かなりいろいろな表現が取れるらしい。ドイツ語では、zwar A, aber B というのによく出会った。
 
こちらの言い分だけを一方的に是としてぶつけても、説得力がない。相手の言い分のよいところを認めるという姿勢は、議論をスムーズにすることだろう。
 
だがこのとき、結論としては、Bのほうである、というところに注意をしたい。Aは、あくまでも添えられた部分であり、認める部分はあるが、結局退けられることなのである。だから、このAとBを逆にすると伝わる内容が、逆になってしまう。
 
「たしかに私にも言い分はある。しかし、私が悪かった」と文が終われば、これは謝罪として聞こえることだろう。これが「たしかに私が悪かった。しかし、私にも言い分がある」と終わったら、本当にはあまり悪かったとは思っていないのだな、というふうにしか伝わらないであろう。
 
私たちが、報道取材の中で、政治家なり代表者なりの発言に対して、なんじゃそりゃ、と思うのは、この後者のような道筋で話している場合が、ありはしないだろうか。
 
Bの箇所には、自分の言い分が入る。どうあっても、これは自分の主張であり、外せない、否定できない、という思いが、そこに現れるであろう。これは、根拠がどうであれ、確信であり、時にそれは信仰である。自分が正しい、と思うことについては、揺るぎない確信があるという意味で、Bにそれをもってくるはずだ。
 
つまり、Bに「私が正しい」という内容をもってくると、これは強烈に相手に響くものである。
 
信仰者が、「それでも私はこれを信じる」という姿勢は、信仰的にはすばらしいものと評価されるかもしれない。牧師が「たしかにAだがBが真理だ」と語るのは、職業柄、ひとつの大切な道筋かもしれない。説教の中では、力強くそのように語ってほしいものである。
 
だが、相手がひとりの人間である場合、そして自分が何か相手を傷つけることをした場合、これはたいへん拙い。「たしかに私はあなたによくないことをした。しかし私は正しいのだ」で締め括られたら、相手の傷をいっそう深めることになるに違いない。それなりに対話をした結果がこれであれば、相手は、何も聞いてもらえていなかった、という思いしか抱かないであろう。
 
悲しい哉、このような目に幾度か遭っている。牧師という仕事は、確信することを徳とするが故に、こんなものの言い方を、ついやりがちになるのだろうか、と思う。否、他人を責めている場合ではない。私もまた、子どもたちにそのように響く言い方をしているに違いない。大人の方に対しても、きっとそうだ。自分は気づいていないというケースが多々あるだろうことを思うと、胸が苦しくなる。気をつけているつもりでも、やらかしているはずだ。気づかないことばかりだろうと思うと、また心苦しくなる。
 
悪い部分もそれなりに伝えることは必要だから、ただ褒めそやしてもよくない。だができるなら、Aの箇所に相手の悪いことを交えたとしても、Bの箇所には良い内容を置いて、聞く人に笑顔になってもらえたらいい、と願う。

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