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神の救いの奇蹟の業を知る

詩編71:14-19 
 
詩は「主よ、あなたのもとに逃れます」から始まりました。救い出してください、というように主に願う言葉が、幾度か顔を覗かせます。そしてこの箇所からは、「私は絶えず待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します」という賛美がまず溢れてきます。祈りはまず賛美から始まるものでありたいものです。どんな願いよりも、まず賛美から。
 
キリスト者は神を証しします。神は正義であると叫びます。救いがここにあると宣べ伝えます。果たしてそれができているかどうか、心が細る人もいるでしょう。逆に、自分はこんなにもできている、と自己愛丸出しでひけらかすような人がいるとすれば、恥ずかしいことです。証しをしたい。そのための準備はできている、としたいものです。
 
けれども、詩人は気づきます。「決して語り尽くすことができません」と告白するのです。主の恵みは計り知れません。だからもう何も何も言うまい、そういう考え方もあるかもしれません。しかし、詩人は、主の正義を称えます。称えずにおれないのです。神の業を語るよりほかないのです。預言者エレミヤもまた、言うまいと思えど言葉が溢れたそうです。
 
「私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください」という祈りがここにあります。しばしば老人の感謝を表す聖句だと扱われますが、「白髪になっても」とあるからには、これは未来の話と理解したいと思います。「来るべきあらゆる代」にこのことを私が語り伝えるという決意のようなものが、ここに出ているように思えます。
 
何を後世に伝えようか。再び挙げられる神の誉れは、その正義であり、大いなる業です。この詩の中心は、そこにあるように見えます。別の言い方だと、「神の義」ということになるでしょうか。神の国と神の義を求めよ。まず求めよ。イエスもまた、このことを教え、掲げました。そして自らその手で、神の業が起こっていることを実現して示しました。
 
奇蹟や癒やしの業は、隠された秘密のようなものではありません。白昼堂々と、多くの人々の目の前で実践されたのです。それが神がそこにいることの証しでした。そして最大の業は、イエスの十字架と復活による救いでありました。そして、この私のような者がそれに目が開かれ救いに入れられた、そこにどでかい奇蹟の業を知るのです。

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