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信じることから常識は生まれた

テモテ二2:8-13 
 
イエス・キリストはダビデの子孫で、死者の中から復活させられました。この方を伝えるというのが、伝道者の使命です。これこそ福音だと伝えるのです。でも、そうするにあたっては、様々な苦しみが伴います。ついには犯罪人とされ、鎖につながれもします。ただ、そもそもキリストこそ、犯罪人とされたのではなかったでしょうか。
 
罪人のうちに数えられたというばかりか、正に極悪の犯罪人として、世にも残酷な刑を受け死にました、否殺されたのでした。但し、神が蘇らせたということで、この方に従う者の命を保証してくれました。この方の言葉が、そしてまたこの方自らが、神の言葉として、私たちに与えられたのであり、そのために命を与えたのでした。
 
伝える者には忍耐が伴うことでしょう。それは、人権とか平和とかいうものが、曲がりなりにも正義とされている現代のような世の中とは異なる時代背景と常識の中での出来事です。理も通らず、むしろ人権などというものを主張することが異常であり、そんなことが嘲笑されていた情況であったはずです。その中で、これは非常に現代的なことでした。
 
実に驚くべきことだとも言えます。それとも、逆にこのことが良いことであるとして、後の時代に受け継がれていった、と見たほうが適切なのでしょうか。この福音を受け容れた者こそ、神に選ばれていたと解することは、後からならできますが、もしその時点でそう信じたとしたなら、私たちの生き方には希望がもたらされるのではないかと思います。
 
後半は恐らく定型の信条でしょう。キリストと共に死ぬと、共に生きることになります。真実を尽くせない私たちですが、キリストは常に真実である、とも言います。この「真実」は、ギリシア語では「信」のことです。よく「信仰」と訳される言葉です。「信仰」というとえらく宗教的なように聞こえますが、もっと平たく理解したいものです。
 
「信」は「信頼」のことでもあり、「信実」という言葉も使用可能です。これは決して否定できません。どんな屁理屈も、信を潰すことはできません。理論を理解したうえでその後に信が始まるのではありません。きのキリストに出会い、造りかえられたが故に、理解が可能になるのです。だって私たちの日常も、まず信頼から始まっていませんか。

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