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イスラエルの民の神となる

申命記4:32-40 
 
イスラエルよ、聞け。モーセの口を通して、改めてイスラエルの本筋となるべきことが告げられます。大いなる種が目を留めた国民もまた、大いなる国民となるのです。しかしそのためには、イスラエルは、主にこそ信を置かねばなりません。偶像は排さなければなりません。その罠に陥る歴史を先取りして警戒するかのように、記述は進みます。
 
ここは、イスラエルの歴史をかつて主がつくってきたことに、思いを馳せる場面です。遙か昔から、イスラエルは主に愛され、導かれてきました。分かりきっていることを並べているようでありながら、これは恐らく教育的配慮であると思います。人々に、イスラエルの何たるかを教えるためのものなのです。
 
日本でも、古事記や日本書紀は、そのような目的で編まれたのではなかったでしょうか。神は人間を創造し、モーセは火の中から神に語りかけられました。申命記は、モーセの遺言のような形を呈しています。モーセが主役であり、狂言廻しでもあります。モーセの視点が常に呈示されています。そして、この申命記の与えた影響は最たるものです。
 
イスラエルのアイデンティティが、アブラハムからむしろモーセに移るからです。この神は山の神であると共に、火の神としての性格ももっています。この一つの民族を選び出し、主をこそ神とする契約を果たし、エジプトから脱出させました。そして相続地を与えました。これは歴史上のモーセの視点を外れても、イスラエルの歩みを教えてくれます。
 
ヨシヤ王の時代の教育としては、これで十分です。問題は、主こそ唯一の神である、というテーゼの定着です。主との契約により、イスラエルの民は主の掟と戒めを守るという生き方を始めたことになります。アブラハムのような個人的な規範でなく、集団生活のカノンとなりました。そしてここにもまた「幸せ」への道が与えられているのでした。

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