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罪と赦しと救い

なんでもひとのせいにする、という性格の人、身近にいないだろうか。それとも自分自身がそうであるといま気づいた方がいらしたら、きつい言い方に聞こえるかもしれず、ご勘弁戴きたい。
 
そこまでいかなくても、自分が他人から迷惑を受けたときには、他人が極悪非道なことをしたかのように表現する、そんな人もいる。その人は逆に、自分が他人に対して迷惑なことをした場合には、実に軽く見るものである。たとえ犯罪でも、やんちゃやいたずらをやったという言葉で済ませてしまう。だがこういう人に限って、自分をきつく叱った先生は暴力的だった、と述懐するものである。
 
しかし、クリスチャンになると、そういう性質が嘘のように消える。これまで他人に対して自分がしてきたことが、罪として認識されるために、それが大きなものに見えてくるのであり、逆に、時分が他人からされた悪しきことも、小さなことのように思われてくる。世界観の基準が変わってくるのである。
 
これは、洗礼のときに、という意味ではない。洗礼はどこか形だけである場合が少なくない。欧米でも、堅信礼といって、幼児洗礼を受けた人が、青年期に自らの意志で信仰告白をするという習慣が見られる。日本でもこれを制度のようにしているのは一部の教会であろう。しかし、改めて、信仰を自覚的に捉え、生き方ががらりと変わるということは、洗礼という儀式に制約されることなく、起こりうることであろうと思われる。
 
自分は他人に悪をなしてきた。すべて自分が悪かった。こういう気持ちになると、だんだん気持ちが卑屈になっていくかもしれない。ところがクリスチャンの場合、そのようなことは基本的にないだろう。なぜかというと、クリスチャンは、自分がなした罪を再出発の根本とし、自分の存在が罪そのものであるかのように思えることがあった場合でも、イエス・キリストにより赦しの宣言を受けているからだ。絶対的な力をもつ方から、赦されているという言葉を受けたとき、罪ある自分をも、引き受けることができるようになるのだ。
 
逆に、赦されているという信仰がないと、引き受けられないし、それがために、自分の罪と向き合えない場合がある。口では、イエス・キリストの名を出すものの、どこか不安で仕方がない。気の毒だ。赦されているという言葉は、イエス・キリストに出会うことにより受けると言えるだろう。それは、神の言葉に触れるという捉え方でもいい。聖書のある箇所の言葉が直接ぶつかってきて、あるいはその言葉に縋ることができて、この体験をする場合が多いだろう。しかし必ずしもそうでなくてもよい。ただとにかく、神との出会いとしか表現できないような、何かある出来事によって、その人は変えられるのである。
 
この赦しの体験は、自分の罪を知ることを経てなされる。そうでないと、赦しとはならないからだ。そして、自分が赦された者であるというところにむせび泣くとき、自分もまた、誰かを赦すことができるようになれるだろう。他人の悪を、絶対的なものとは見なくて済むようになるだろう。
 
それが、「救われた」という思いを支える経験となることに、多くのクリスチャンは賛同してくださるだろうと思う。尤も、ひとの救いには様々な形があり、ドラマがあるに違いないから、一概に公式に入れることはできないが。
 
福音を語るということは、このように罪と赦し、そして救いについて、知らせるということであるのではないか。語る者自身が、こうした導きの中で恵みをたっぷりと受け、心からその喜びを明らかにする中で語るからこそ、それは福音となるのである。

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