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永遠へのステップ

改革派の重鎮と言ってよいであろうか、吉田隆先生の訳による、「ハイデルベルク信仰問答」の問58は、次のようになっている。
 
問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。

 答 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、
     この生涯の後には、
     目が見もせず、耳が聞きもせず、
     人の心に思い浮かびもしなかったような
     完全な祝福を受け、
     神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。
 
8月最終主日の礼拝説教は、この引用から始まった。新約聖書では特に、「永遠の命」を求める人がイエスの許を訪ねることがある。それは、時間的に永遠に生きるという意味ではない。復活のキリストを信じる者に与えられる恵みだとは言っても、私たち人間は、「永遠」という言葉で、物理的時間の無限性を想像することしか、どうやらできないものらしい。
 
そこで注目したいのは、この「答」にある「永遠の喜びの始まり」という表現である。「永遠」なのに「始まり」があるなら、単純な頭では「終わり」はどうなるのか、というふうに思ってしまう。だが、キリストの出来事は、キリストと出会うことによって、ひとを或る種の「特異点」に置くことだろう。イエス・キリストという出来事が、歴史の中に「特異点」を設けた。十字架の死と復活である。そこに救いがあるのだということを信じた者は、信じたところから、新しい人生の道を歩むようにセットされる。そこに「永遠の喜びの始まり」があるのではないかと思う。
 
説教者はここで、「水たまり」のイメージを、会衆に与えた。この、目に浮かぶようなイメージをもたらす説教というのが、実にいい。水たまりそのものはただの水である。だが、それは広い青空を映し出すことのできるものでもある、というのだ。私たちが淀んだ水たまりであっても、そこに神の栄光を映すことは可能なのだ。もちろん、それは神の恵みによるものであって、自分が輝くように錯覚してはならない。貧相な土の器の中に、神の栄光が納められていることと比較できようか。
 
私たちの地上の礼拝も、黙示録にある天の礼拝を映しだしているもの、と信じようではないか。信じるべきなのである。ささやかな礼拝ではある。だから、へたをすると仲良し倶楽部の集会となり、互いの顔を毎週見ては安心し、雑談に励み、趣味自慢をするような会合に堕してしまうことになるのだが、それはもう形だけの儀式に成り下がっていると言わざるを得ない。厳しい見方をする人は、堕落であり冒涜である、と指さすかもしれない。
 
黙示録は、当時の語彙で、当時の文化の中で書かれている。記事の内容が幻であるにしても、その対象をどのような言葉で表現し、どのようなテクストの中に置くか、それはその人物のセンスによるものである。そうして書き遺された言葉だけを頼りに、時間も空間も遙か離れた私たちが、別の言語で(新約聖書原典にしてもギリシア語というのがすでにひとつの外国語的な位置にあるものと見なさざるをえない)受け取ったとき、私たちはその語の対象が何であったかを、最初の幻の通りに再現できると考えるほうが無謀である。
 
そうであるにしても、ここにあるスピリットは、天において礼拝がなされているという姿である。その礼拝は、遺されたその言葉から最初のイメージ通りに再構築するのは無理であるにしても、とにかく水たまりに映った青空のように、輝いていることだろう。聞くところによると、イスラエルの風土における青空は格別であるという。乾燥の度合いが影響するに加えて、荒れ地との対比によって青が際立ち、よりクリアに、鮮烈に輝いているのだという。きっと、私たちが思い浮かべるよりも、ずっと輝きに満ちた礼拝が、天でなされ、そこに私たちが参加している幻を、いまここでまた新たに見ていたいと思うのである。
 
また、説教者は、天使が封印を解けと命じた巻物について、「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」(5:4)にも目を留めた。そう、この涙を、説教者は評価する。心ゆくまで涙を流すことこそ、神を信じる者の姿であるとさえいうのだ。なぜなら、神が慰めてくれるからだ。そのことを、一人の神学者の言葉として説教者は取り出したが、さすがにそれだけでは出典は分からない。ただ、家族を不幸な死で喪ったルードルフ・ボーレンという神学者の著作で、17世紀の説教者クリスティアン・スクリーヴァーに非常に慰めを受けて、綴っているものがある。「涙を流れるにまかせよ」というのだ。そして「涙は、神の将来に向かって、そこに注がれる」と説く。そして、「恵みは、涙に新しい方向を与える。涙はもはや下に流れはしない。上に向かって流れる。涙が数えられる場所へと向かうのである」と語っている。涙は天に向かう、なんという慰めであろうか。
 
自分の運命を嘆くもいい。ただ純粋に、悲しみに暮れてもいい。神はそれぞれの涙の意味をご存じである。その価値を自らの傷の痛みとして感じているということを、イエス・キリストの流した血が教えてくれる。そのキリストの「有り難さ」を思うと、これまた涙する。著名な神学者であり説教者であった方が、十字架を語るときには、壇上で涙にむせび語るのだったと確か聞く。それはまた、自分の罪の重さ、大きさを泣き悲しむというものであったともいえる。罪を問わなくなった教会が増えてきた中で、本当に嘆くべき対象は、自分自身であるという信仰が、なんと健全に響いてくることであろうか。それは、どうしても必要なステップであるはずである。
 
ところで黙示録でヨハネが泣いたのは、「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかった」からである。だが、そのことが問いかけられる前に、説教を聞く者たちの心の中には、答えがちゃんと現れていた。もちろん、イエス・キリストである。この世の決着がどのようにつけられるか、それが記された巻物であり、その封印が解かれたとき、世界は大団円へ向けて収束を始める。ヨハネの幻によると、まだまだ事件はいろいろとあるが、すでに試合の行方は決定している。その巻物の意義を、人間が左右しようだなどと考えてはならない。それはイエス・キリストが、屠られたような小羊が解くのである。解決は人の外から、神から、天から、なされるのである。
 
しかもその「屠られたような小羊」とは、いわば死んだような小羊だということである。いったいどこの世界に、殺されて料理させようとするような小羊が、世の裁きの旗を振るなどというような話を、まともに聞く人がいるだろうか。だが、ここに能天気な人々がいる。聖書を神の言葉と受け止める、キリスト者である。
 
5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
 
「歌った」とは記されていないが、要するに「歌った」のであろう。その直前で、「四つの生き物と二十四人の長老」が「新しい歌をうたった」からである。その歌は、何語であっただろうか。バベルの塔以来分かれた言語が、ここへきてひとつになるのだろうか。隔てた壁を壊し、神と人との和解が成し遂げられ、そしてキリストの言葉を聞き入れた者たちは「一つとなる」という言葉が、実現するのだろうか。
 
さて、『カラマーゾフの兄弟』が取り上げられ、ゾシマ長老の死に際したアリョーシャの話に説教が入ったところで、回線がおかしくなり、切れてしまった。その後どのように説教が結ばれたのか、私は知ることができなくなった。またそれが分かった時点で、もう少し綴り加えることができるかもしれないが、いまのところ、ここでレスポンスは閉じておかなければならない。ご容赦ください。
 
――その後の礼拝説教の動画を見ることができた。説教題も初めて分かった。ゾシマ長老の腐臭以後の展開が与えられたことは喜ばしい。
 
説教は、物語をしばらく追う。ゾシマの死に伴って、カナの婚礼についてパイーシイ神父の朗読を聞いているうちに、夢うつつの状態になる。幻のうちにか、アリョーシャの前にゾシマ長老が現れる。「喜びの酒を飲もう」というように、ゾシマはアリョーシャを新しい人生へと誘う。ここは名場面である。アリョーシャは、呼ばれた。招かれた。修道院を出て、在野での歩みへと招かれる。そこは水たまりが淀む場所かもしれないが、その水たまりには、遙か拡がる青空が映し出されているのだ。
 
こうして説教は閉じられた。もちろん、言葉はさらに厚みを増している。招かれたのは、果たして誰であるのか。その問いかけは、限定した答えを求めない。ただ、私たちが、そして私が招かれていることだけは、確かである。説教は、聴く者を変化させる力がある。否、変化させられねばならない。本を読んで感想文を書くのに、何も読み手が変化しない有様では、感想文に命がないだろう。礼拝説教も、語り手が語る言葉は神の言葉であったとき、聴き手を何かしら変化させるものである。神の言葉は、科学反応を起こすはずである。少なくとも、青空がぱぁっと拡がる風景を、誰もが見たのではないだろうか。

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