2023-07「ズボンにカナブンがひっついていた」

 ひと月が経過するのはあっという間ですね。

 自分のツイートや下書きをまとめて補足の文章を書く作業も、自分の中で限界が見えてきた。自分しかいない記事を書くという自分の思いつきに、自分の勝手で限界を感じている。これは少しおかしいのかもしれない。「自分の中で限界が見えてきた」という言い回しも格好をつけすぎかもしれない。

 限界といっても、フォーマットとしてはまあまあ気に入っている。ほかの人にもやってほしい。月ごとのツイート数が少ない人はやってほしい。自分の気にいったツイートだけでもいい。


今月のツイート

先月のやつに書いた。楽しみだね。

 『アクロス・ザ・スパイダーバース』に出てくるヴィランのスポットね。スポットみたいにほくろを取り外して、それをワープホールにできるわけではない。残念。

 乗代雄介の小説、今年の芥川賞候補作だった。修学旅行の話。 

徹夜して一日開けてまた徹夜、みたいなことをしてた。

映画:『君たちはどう生きるか』(ネタバレあり)

 公開当日の金曜日には予定があって、日曜日に見た。情報を耳に入れることなく見ることができてよかった。

 主人公・眞人の母を亡くしたあと継母に連れられてずっと黙っている姿がまず印象に残った。子を身ごもっている腹に手を押し当てさせられてどぎまぎ、みたいな心の動きもあることにはあるが、表情は大きくは崩れない。

 眞人が家に到着したあと、おばあちゃんたちが出てきて本当にたまげた。おばあちゃんたちが動きまわって話すだけで面白い。「あるところにはあるんだね~」の言い方とか。動いているだけで面白いのでいうと、後半に出てくるインコたちもそうだった。あのまぬけなツラがよい。

 題名について。「生きる」といったとき、その題名が書かれた時代や、それを引用する宮崎駿が生きてきた時代から、「生きる」という語が指す内容がすっかり変わってしまっている気がする。誰も「君たち」という二人称で呼びかけられるような共同体のなかで「生きる」とかいう感じじゃない。

 サム・ペキンパー監督作品。経験はあるが落ち目の年寄りが、無茶をする未来のある若者を指南するという図式が作中にあった。こういうのを『君たちは~』に少し期待してたんだよな、と思った。

畳語のふしぎ。

 読んでいて心が安らいだ。第一部の終わり、家族で泊る松山のホテルの寝室で眠りにつくまでのくだりなんかは特に美しい。

笑顔を奪うのは誰だ。

シャニマス:283PRODUCTION SOLO PERFORMANCE LIVE「我儘なまま」: Day 2

シャニマスのソロライブを現地で見てきた。その日のことを書いておこう。

 京王線飛田給駅に到着して、まずグラスコードを家に忘れたことに気が付いた。私は眼鏡ユーザーなので、ライブ中に肉眼から双眼鏡へとスムーズに切り替えるためにはグラスコードが必須なのだ。グラスコードは採点中に老眼鏡が必要な先生や、サングラスをかけたマダムだけがつけるアイテムなのではない。開演時間まで余裕もあるし近くに眼鏡屋か100円ショップがあれば調達できるかと思ったのだが、飛田給周辺に眼鏡屋と100円ショップはなかった……。

 忘れ物をして凹んじゃったけど駅前のコンビニで仕切り直そう、と思ってエスカレーターを降りてロータリーを歩いていた。すると、くるぶしに何かが刺さったような痛みが走った。何だ?と思ったが気にせず歩いていた。でもすぐに、ちくっちくっという痛みの感覚が足首からふくらはぎまで這い昇ってきた。リネンのズボン越しに? 何?何?何何何?と思って脚を見た。ズボンにカナブンがひっついていた。ズボンの布を必死にばたばたさせて振り落とした。恐ろしかった。

 コンビニではサクレレモンを買って食べた。味付きの氷塊は身体をクールダウンさせるにはぴったり。

 今回のチケットはアソビストアプレミアム会員先行で購入した。アリーナ席で、センターステージの脇側の最前列だった。双眼鏡のためのグラスコードは不要の席だった。

 終演後の感想がこちら。

 三峰さんの「プラスチック・アンブレラ」をライブで聴ける機会はめったにないぞ……!と思って参加した。聴くことができるだけで満足のはずが、さらに、ドラマの盛り上がりを上乗せされたかたちで聴くという体験ができたのは予想外だった。希水さんが三峰さんを演じるすがたを見ることができたのは感慨深いものがある。

 ツイートにある通り、今回のライブは大崎姉妹……。となった。出演順でいうと前後するが、甘奈さんの「Anniversary」。歌が超すてきだったのに加えて、今回のライブではヘッドセットマイクを使用していて、振り付けで両手が自由になっている。このバラードでは、宛先もあり方も複雑な感情を、歌声と同時に両手の動きで、その全身で表現していた。そしてその立ち姿を華やかに飾る今回の衣装も似合っていて、すばらしかった。

 甜花さんの「また明日」。開場までの時間でソロ曲を予習する中で、この楽曲が、音像をとっても歌詞の内容をとっても、シリーズの中でかなり好きな楽曲であることを再確認していた。ライブで聴くと、全身で楽しめた。ビートで首を揺らすのが楽しく、甜花さんの声はとても聴き心地がよい。これも衣装がよく、シルエットが非常にかわいらしく甜花さんらしかった。

 私にとってステージを近くで見れたことはこの上なくうれしい体験だった。そして、正直に「遠くの席で見るよりも」とつけ加える必要がある。というのも、これまでのライブで遠くの席で見ていたときの私は、最前列にいる人たちのことを毎回はげしく妬んでいたから……。

 しかし、いくら近くで見ようと遠くから双眼鏡で見ようと、その距離の遠近とは無関係に、ステージの上のアイドルと客席のファンという構造は変わらない。これは本当に不思議ですね。

 どうして見たのかわからない夢。最近は、競馬で100万近く当てるという夢を見た。その晩、使えるお金がなくなることへの不安に押し潰されながら眠りについたので、その不安の反映があからさま過ぎて笑ってしまった。

 それと同時に怖くもある。趣味ではなく金ほしさにギャンブルに手をつけるという発想が植え付けられてしまったような気がするから。

 フューリーが輝く瞬間がいくつかあったので最低限単体ドラマシリーズとしての体裁は保たれている。にしても、そのいずれもが映画で登場するときのカッコよさを超えていないので、つらい。

 シャニマスのアニメの配信番組で感じたことです。この人はネット上のアイドル文化のやり方で扱ってもよいだろう、という不特定多数で匿名の集団による「決定」がおこなわれるのが、怖すぎる。ネット黎明期の初心者みたいな恐怖。

小説:ニコルソン・ベイカー『もしもし』(※性的な話題が含まれる)

 どこでこの本を知ったのか忘れてしまったが、電話に興味があったのと、岸本佐知子による訳なので面白かろうというのもあって手に取った。図書館で借りて読んだのだが、「これほど自分にぴったりの本はそうそうないぞ!」と思って改めて買った。ごく私的な感動をもたらす作品だと思ったのだが、アメリカではベストセラーだったらしい。ふうん。

 『もしもし』はテレフォンセックスに興じる男女の話だ。地の文はいっさい無く、二人のセリフのやりとりだけで全編が構成されている。電話をかけてから、話し終えるまでの作品。

 セリフだけのテレフォンセックスといっても、いやらしく甘い愛の囁きや喘ぎ声がずっとつづく、みたいなことではない。自分の性体験や淫らな妄想についてのセクシャルな話がほとんどではあるが、そこで語られる細部へのこだわりのおかしさを楽しむような内容である。そして、それを包み隠さず打ち明けあう二人の「正直さ」にうっとりするラブロマンスであり、さらには、その赤裸々な対話を可能にする電話というメディアの存在がありがたく思えてくるような作品でもある。

 こういう作品の美点は、訳者解説の言葉が端的に説明してくれている。

 『もしもし』はセクシーな小説である。けれどもそれは、ニコルソン・ベイカーのすべての作品がセクシーであるように、という意味においてである。作家が自分のオブセッションに対してどこまでも忠実であろうとし、それを表現するために言葉を練り、鍛え、極限まで引き伸ばしていく。そのストイックさこそがセクシーなのだと思う。そして扱う題材がセックスであろうとホチキスであろうと、そのことは変わらないのだ。

『もしもし』白水Uブックス、184頁

忠実に言葉を尽くすことにはエロさがあるのであり、『もしもし』はそれが満ち溢れている、というわけだ。

 話は変わるが、こういう性器の接合のない性交渉は、村上春樹がときおり描いているものだ。このことに関連して、1989年にいとうせいこうは『World Atlas』で次のようにいっていた。

 同じように、今国家レヴェルで進行しつつあるのが『変態趣味』である。通常の性交を伴わずに性的満足を得る行為が賞賛され始めているのだ。異物挿入、フェティシズム、挿入を目的としないオシャレなSM、『ノルウェイの森』風フェラチオだけの肉体関係。このように現在流行している性的な嗜好のほとんどが、集合的無意識によってAIDS感染を避けているとしか思えないのである。
 何が、『今、禁欲的純愛』だ! 今我々が享受させられているのは『変態的禁欲』だけなのだ。

『World Atlas』単行本、23頁

 『もしもし』(1992)で描かれたテレフォンセックスもまた「変態趣味」の一つに他ならない。しかし、「通常の性交」なるものを想定することの正当性は問われてよいだろう。これは松浦理英子が批判するところの性器結合中心主義の典型である。ただ、そういう問責に対して「まさにそのように問うてしまうほどに変態的禁欲にどっぷり浸かっているのだ」という反論が返ってくるのだろう。

今月の下書き

 同時代の現実の出来事に応答するみたいな作品、私が初めて見たのは『あまちゃん』かもしれない。
 一昨年に『あまちゃん』を見返したのは、シャニマスをプレイし始めたから改めてアイドルものとして見返してみよう、というのが動機だった。けれど、コロナ禍のなかで見返すことで、災禍のあとに作られた作品としての励ましを受け取っていたかもしれない。

『あまちゃん』は偉大な作品だね、ということをいいたい。

政治:戦時中を知る人・「イエロー」・厭戦

 なんでこんなに政治の話をしているんだ?というくらい、下書きに政治の話が溜まっていた。終戦記念日が近いからかな。政治の話が嫌いな人も我慢してお付き合いください。

昔話で何が悪いんですか! 死んだあとの世界もないんですから、この生で起きたことはこの生のうちに振り返らなくちゃいけないでしょうが!

 最近はこういう気持ちになっている。「未来のことを話せ」というが、いったい未来に何があるというのだろうという気持ちになっている。せいぜい災害、それか戦争だろう、と。

 WW2時に生きていた人がもうすぐいなくなってしまうことを不安に思っているが、映画がある限りは少し安心してもいいかもしれない、と楽観視している部分もある。たとえば、『ゴジラ -1.0』はなかなかいいものを見せてくれるんじゃないかといまの段階から期待を寄せているところがある。もちろん、映画には、プロパガンダに用いられた大きな歴史があることも、「バーベンハイマ―」のような騒ぎがつきまとうことも知ってはいるのだけれども……。

 別の下書き。

 近々 戦前・戦中生まれの人間がこの社会からいなくなることへの不安がある。しかし、私は特に歴史や記録、伝承なるものに専門的で特段の関心を抱くわけでもない。「専門」というのは読書の傾向レベルの話で。これだと平和教育ないしそれに類するメディアのメッセージが単に情操的なレベルでその成果を発揮しているに過ぎないのではないか、と思う。

 それこそ「バーベンハイマ―」の件で日本の平和教育の「成果」を知った感じがする。しかし、それはどこまで続くのだろうか、未知数。

〝ブラック〟やNワードに相当する言葉として〝イエロー〟をいうにしても、しかしそれはアフリカンアメリカンの場合と違って、国家同士の戦争において頻用された人種差別の語であることを踏まえねばならないのではないか。

 ラップのリリックについて。たしかに、レイシズムにおける蔑称を逆手に取るという知恵をアジア人が倣うならば、黄色い肌にプライドをもつことになる。アメリカではWW2以前からアジア人移民への差別があったから、国内で「イエロー」という語が伴う形で抑圧されたアジア人がいるだろう。

 しかし、日本にルーツを持つラッパーが「イエロー」の肌を歌う場合に、それは大戦中に「黄禍」としてプロパガンダで描かれたことを踏まえた上で歌われているか。そうは思えない。その「黄色い肌」という言葉は、アフリカンアメリカンのように奴隷制度の歴史から来ているのではなく、それとはまた別の差別の歴史をもっていることを考えるべきではないか?

 以上の雑感も多くの議論と同様、日本とアメリカばかりで考えているのが問題で、植民地支配の歴史があるアジア諸国のラップにおける対日意識みたいなのがわかってないのですけれども……。

 厭戦や敗北主義の表現も弾劾されてはならないこと。たとえば、ウクライナが侵攻されたときの戦意高揚が日本にまで伝わることを考え直す。

 政治の話はここで終わり。

 哲学の何がよくて読んでいるのかわからなかったが、もしかすると一つには、存在論やら認識論やら道徳論などの区別をしてしまえることの安らぎ、あるいは区別してしまうようにはできないことの不安は大きい気がしてきた。哲学のなかでも、どれか一つの領域のみに絞った議論には興味がもてないかもしれない。分離にせよ接続にせよ、順接にせよ逆接にせよ、二つの領域について論じられていることに醍醐味を感じるようだ。

「存在論のレベルで他者に負い目を負う」みたいな存在論に道徳の説教を密輸入してしまうようなお話も、「何を言っているんだよ」と思うものの、存在論一本・道徳論一本みたいなやつに比べれば多少楽しいことに気づいた。人生論として哲学の議論を読む、あるいは「実存が見えない哲学はダメ」みたいなスタンスの一歩手前の観もあるから注意が必要だが。

アート・ブレイキーなら聞けるという状態なんですけれど、これってどういうことなんですか

ジャズに自信ニキ、教えてください。

 日本語ラップにおける犯罪以外のカウンターカルチャー要素、ほとんど「メディアは本当のことを言っていない」じゃないか……?

 YOASOBI「アイドル」のラップパートのリリック、「無敵の笑顔で荒らすメディア」も、この傾向の副産物だと思うのだが、どうだろう。実証性に乏しい憶測であることはわかっている。ただ、「メディア」という語はメロディのある歌の歌詞にはなかなか使われないのであって、30年以上の日本語ラップの蓄積がその語をラップパートで用いることを可能にしたんじゃないか。

批評:秋山駿『内部の人間』

 秋山駿の「内部の人間」、これを読んで感動するみたいなのはもう少し前に済ましておきたかったと思う。鬱屈にもっとふさわしい段階というだけでなく、周囲の人が思わぬことを口にするようになった困惑の時期に……。この文章の存在を広く教えてくれなかった先人たちの不見識と、存在を知ってからすぐに読まなかった自分を恨むしかない。まあ今読めているからいいんですけれども。

 七月は『もしもし』と『内部の人間』に出会えた。いい月だった。

 人間の生きる最小の単位とは何だろうか。その現実上の、生活上の単位とは何だろうか。それはこのもっとも小さな、ただ一人の私の生存、というものに間違いあるまい。しかも、この私の生存という場所で、私は、自分がそこから出発してきた真に現実的なものの、何も見出さないのである。そこにはほとんど何もない。私の眼に見えぬ何かがまだ隠されているということすら疑わしい。ただ、そこに私が存在している、ということくらいしか見当らない。これは、いわば生の最小限度であって、ほとんど無意味に等しいものである。この、単にそこに任意にあるような私の生存をして、現実の人間へと再生すること、つまり、生きるために必要な現実的手段と過程の各順序をたどって、社会的生活を営む一人の生き生きとした独立する人間であるようにすること、そのためにこの私の必要とする現実、いわば生活の基礎となるべき現実的なものを、私は見出すことができないのである。

『秋山駿批評〈1〉定本 内部の人間』、224頁

他の人にも読んでほしいな。図書館にあると思います。

今月のファボ・ブックマーク

批評:共同体

 大江健三郎の小説を読んでいて、そこで描かれる共同体について関心があった。ちょうどいい批評があったので、あとで読もうと思ってファボしてた。

 宗教というと、我々はつい信仰対象(神か仏か、実在の人物か)や教義の内容に注目してしまいます。けれども人が宗教に入るのは、まず信仰ありきではなく、人とのつながりを求めてです。

上記記事

 新興宗教の問題の周辺の言説に対して、共同体の問題を再浮上させるうえで必要な指摘をしている。
(無関係だが、「現世利益ありきもまたスピリチュアルを信じる理由のひとつである」というのが川上未映子『黄色い家』だったのかとも思った)

 次の箇所でも改めて集団・共同体の問題の失効をいっている。

 では、コミューン運動の時期と現代の間で何が変化し、何が失われたのか。答えは明らかです。失われたのは「集団」、或いは「共同体」であり、つながりへの欲望は断片化されたのです。70年代、人々のつながりへの欲望はまだ共同体の輪郭をまさぐっていました。現代のつながりにそうした集団性、共同性はありません。あるのは金銭とネットを介した、多様でにぎやかだけど、個人と個人のコミュニケーションです(注11)。
[……]「立てこもり」から「ひきこもり」へ。つまり社会からの離脱や抵抗は、「集団」とはかかわりのない、孤独で孤立した行為としてしかイメージできなくなったのです。抵抗の拠点としての「共同体」はリアリティを喪失しました。

上記記事

 これらの私の引用から、この批評文が共同体の喪失を嘆きその復活の重要性を言い立てていると想像するのは誤りなので注意してほしい。前後の文章では、これまでのコミューンの実践の帰結の検討や、そのロマン主義的な言説の危険性を論じているので、誤解しないよう。

 今後、共同体・コミュニティが復活するとして、どのようにであろうか。家族・親戚はしぶとく残るかもしれない。だが、「血縁関係だけが共同体に残された可能性であるというのはとても困る」という人も多かろう。となると、公教育とかであろうか。大学でサークルに入らなかった私としては、共同体といったときに思い起こせるのはせいぜい小中高しかない。だがこれも血縁関係同様、学校に馴染めない人が大勢いる。資本主義社会において分業の徹底によって労働者たちの連帯が困難になったという左翼の話を信じるとすれば、ますます先行きは暗いぜ、ということになる。インターネットのコミュニティといっても、運動家や指導者はおらず鯖主しかいない。君たちはどう生きるか。

いわゆる神回。

すごいぜ。どういう話をする気なんだ。

ソロライブ後のツイートたちのなかから、好きなものを。


今月の分は終わりです。限界を感じるとかいって書き始めたけど、いつもと同じくらい書いているか……。


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