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#57 感謝して食べればよい、、、のか?

1月22日。金曜日。昨日徹夜で作った資料を午前中に報告して、なんだか疲れ切ってしまった。ちょっとだらしない1日だったと思う。

そんな今日は【感謝して食べればよい、、、のか?】という話題で。僕のこのnoteも、ヴィーガン関連のフォロワーがちらほら増えている。ので、週1ぐらいは菜食の話をしていきたいと思います。思うことを書くだけ。

今日の記録

9時半、起床。昨晩寝たのは午前6時なり。ちょっとだけ報告準備。10時半から授業。

報告、あんまりうまくできた自信なし。オーディエンスの反応も薄かった。ちょっとだけ暗くなる。来週にはレポート提出もあるため、一安心というわけにも行かず。

13時から、図書館バイト。バイト中、またしても他のバイトを並行。ベジ系のお店をデータベースに登録するバイト。一応、こちらでも宣伝しておきます。

17時、バイト終わり。のち、CoCo壱でベジカレー。今日はカレーの日だったらしい。ベジ三昧を注文。うまし。高いけれど。

その後は家に帰って、就寝。徹夜疲れと報告疲れが重なって、テンション低し。
これ、いろんな人に聞いてみたいのだけれど、なんか唐突に一切の自信をなくす日ってないですか? よくわからんけど、何が正しいのか一切分からなくなってしまう的な。今日はそういう日でした。ブルーです。でも、寝たらだいぶ治ったことよ。

感謝して食べればよい、、、のか?

(3500字ぐらい)

というわけで、今日も今日とて菜食トピック。食肉の是非についてどす。

↑の記事について。一昨日も紹介したけど、最近の動物倫理系の話題ではこれが一番面白かった。
内容としては、動物飼育系YouTuberが、生きた状態のハムスターをヘビに食わせ、その様子を動画でアップ。それが動物愛護団体の目に留まり、刑事告発を受けたというもの。

一応、刑事告発を受けたということは、何らかの法律に抵触していると見なされた、ということになる。単に「不快だから」のみを理由とした通報ではないということ。今回は動物愛護法がそれにあたり、40条「動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によつてしなければならない 」などに該当したとされている。
少し話は変わるが、昔見たニュースで、生放送中に子供の虐待の様子が映り、配信者に通報が殺到したというものがあった(詳細はこちら)。今回の事例は割と、これと近い構図を持っているんじゃないかと思っている。配信の最中に何か法に抵触する行為があり(動物虐待or児童虐待)、それを問題視した視聴者から通報が寄せられたということ。人間と動物という違いはあるけれどね。

この記事が面白いのは、この3頁で紹介されているだけでもいろんな問題・論点が含まれているということ。特にジャーナリストの人が指摘している、「法律の話、人間の感情、現実に起きている話、という3つのレイヤーがあって、それがゴッチャになっている」というのは興味深い。
のだが、今回着目しているのは別のところで、「日本動物虐待防止協会」の代表の方の次のセリフである。

「教育として家畜を殺す“命の授業”のようなことをする学校もあるが、お肉を食べない人だって世の中にたくさんいるし、殺す必要がないものをわざわざ子どもたちの目の前で殺さずとも、言葉で説明したり絵で示したり、ロボットのようなもので代用することもできると思う。」〔強調:引用者〕

これは結構、大事な指摘だと思う。というのも、僕は菜食主義の実践を始めて以来、「食肉の是非」についてのサイトをそれなりに読んでいるのだが、そこにおける結論の多くが「感謝して食べることが大事」というところに落ち着いているからである。もちろん、命を奪っている以上、感謝して食べるのが大事だとは思う。ただ、そこからちょっと進めて「動物の命を奪うことは基本よくないが、感謝して食べていれば問題ない」とする主張には、何か違和感があるというか、どうなんだろうと思っています。今日はその話。

まあ率直な疑問を言うと、「命をいだたくときに、その対象に感謝すべし」という主張は、まあわかる。本来ならその命はもっと生きていたかったはずであるし、それを自分のものとする以上、そこに感謝の気持ちあるべしということだろう。これは理解できる。ただ「感謝さえしていれば、命をいただくことには問題ない」という主張には、本当にそうなのか? と思うところがあるということ。

というのも、現代において食肉は必然ではないというか、基本避けることのできるものだからである(完全には難しいかもしれないが、食べずに生きている人も一定数いる)。例えば、もともと人間は狩猟をして暮らしていたということを挙げて、「人(生物)にとって肉を食べることは自然なことである」とする言説もある。が、はっきり言ってそれは昔の状況が前提なのではないかと思う。今となっては、肉の代わりになるような食品がたくさんある。そして仮に昔の社会でそうであったとか、古来の人間がそうであったからといって、今の人間もそうならなければならないとはならないはず。

現代では野菜・穀物の生産量もかつてより上がったはずであるし、そして、栄養面などにおいても、肉の摂取は必ずしも必要ではないらしいし(もちろん個人の事情や、諸説はある)、また工場畜産が環境にもたらす影響などを考えるに、肉食を避けた方が未来的に持続性があるとも言われている(これも諸説あるらしいけど)。実際僕も食肉を避けた生活を続けているし、それで何か健康上の問題が生じたことも特にない(財布がきついけど)。何が言いたいかというと、「肉を食べる」という行為は決して必然ではなく、多くの場合それは避けようと思えば避けられるものであるということ。

で、話を戻すと、頑張れば避けられるものについて、「感謝さえ忘れなければ、それを行っていても問題はない」とするのは、ちょっと無理があるんじゃないかと思う。例えばの話、食肉から離れるけれど、現在の流通システムがトラックドライバーの過激なブラック労働から成り立っていたとする〔Amazonなど)。で、それを考える際に、「ブラック労働はよくないので、ドライバーの雇用状況を改善しよう」とはなっても、「めっちゃ働いてくれるドライバーへの感謝を忘れず、これからもネット注文を使い続けよう」とは、あんまりならないはずである。いや、感謝するとか言うなら、ちゃんとそのシステムを見直そうよというか。そんな感じで、あることが問題とされていて、それを避けることが可能な場合に、感謝さえ忘れなければそれをやっても問題ないとするのは、ロジックとして難があるんじゃないかということです。

「食肉の是非」を論じたサイトでは、多くの場合次のような締めが使われがち。すなわち、「命をむやみに奪うのは確かによくない。だが生物にとって、他の命を食すことは自然なことであり、避けられないことでもある。そうである以上、せめて感謝を忘れずに食べることが大事である」などなど。ちなみにこの言説はめちゃくちゃ多い。で、今回言いたかったのは、本当に「食肉」は避けられないものであるのか、そこは検討の余地があるだろうということ。またそれを避けようとする可能性をどこまで探ったのかということ。ちなみに僕は、その可能性を探っている真っ只中です。まあ、日本社会でこれをやるのは、だいぶしんどいことではある。

念のため。今回は「食肉は避けられる」の定義を、「肉を食わずとも、野菜や穀物で腹は満たせる(栄養面も大丈夫)」としたけれど、真っ当な社会生活を送るうえで本当に避けられるかとかの問題はある。あと栄養面で大丈夫であるかはまだまだ諸説あるようである。さらには、野菜を育てる上でも「害獣駆除」といった形で動物の犠牲は避けられないという議論もある。こういうのも拾わなきゃと思っているんだけれど、どうにも疲れたので次回にします(論点があまりに多すぎるよ)。ただ今回一番言いたかったのは、安易に「感謝して食べていれば問題ない」というところに議論を落ち着かせるのはどうなんだろう、ということでした。難癖付けただけみたいになってしまったけど、まあそんな感じです。

今後もいろいろ扱っていきたいトピックとしては、次のような感じ。

・植物にも命はあるのに、なぜ動物だけを問題とするのか
・「食肉を避ける」というのは1つのライフスタイルとしてありだが、それを他人に押しつけるべきではない
・害獣駆除や山・畑の開拓など、どこかで動物の犠牲は伴う
・肉を食べた方が飢餓は解決できる(中田敦彦YouTube大学の動画への批判として最近あったもの)
・動物愛護は単なる「感情」の問題であり、「あなたはそう思う」というだけの問題である
・ヴィーガンは端的に偽善者

などなど扱わなければならないトピックが多すぎるよ、、、 まあ、ぼちぼちとやって行けたらと思います。

あと、個人的には、できるだけ論理面でやって行けたらと思っています。動物が受けている苦痛をアピールするというよりは、そもそも論理として正当化できるのかを見ていく的な。まあ前者はすでにやっている人が多いので、、、
ひとまず、自分が書ける範囲でやっていこうと思います。この辺に興味ある人にとって何かの足しになれば、幸い。今日はそんな感じです。もう朝の7時半なんだけども、一応22日の更新ということにしておく。

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CoCo壱のベジカレー三昧。ナスとほうれん草と大豆ミートメンチカツ。1050円ぐらい。おいしいけど、高いっすよ。