2020/2/17

今日から気分が続く限り綴り続ける日記帳。出来事をただ綴る日もあれば自身の考えについてだらだらと書き連ねる日もあるだろう。誰かに読んでもらうため、というよりかは自分の整理に近い。が、他人が目を通せるという環境下であるため、また共感してほしいと思う時もあるだろうから、文体は読み手を意識した書き方になるかもしれない。そして、この日記帳においては私が読み手に何かを強要する事は無い。全てが全て独り言であり、読み手が勝手な解釈をして、強要された、ということは無いようにだけ。もしそう感じてしまうのであれば、そっとこの日記帳を閉じることがいいと思われる。


今日は実際にあった出来事を基に少しと、それとは別に自論を一部書こうと思う。初めぐらいは自分の中で少しやりすぎなぐらいでいいだろう。どうせ今後は雑になるだろうし。



今日は雪の降る寒さ以外特筆すべきことが無い一日だと思っていたが、17時からのバイト先でそれが違うものだと知った。


バイト先(アパレル)に着くと、社員の方から「○○君にwebアンケートでお申し出来てたけど、無視していいよ」と言われた。クレームが来つつ放置?と思ったわけだが、実際にwebアンケートに目を通すと納得した。内容が「急にお客様と声をかけられたのが不快だった」というものであったからだ。聞くと、なんと電話までしてきたのだそう。昨日、その客を相手にしたのは紛れもなく私である。ご高齢の女性が、同じ場所をキョロキョロとしながら何度も行ったり来たりを繰り返していたため、「お客様、何かお困りでしょうか?」と声をかけたのである。接客の基本であるため、もちろん相手の顔を見ながら言ったわけであるが、向こうは「なにもないです」と踵を返した。万引きの類を疑ったが、その後は特に何事もなく買い物を済ませて退店した。


さて、私が感じたことは二つである。まず、目線を合わせて話しかけているため、盲目でもない限り気付いていないということはほぼありえないだろう。しかし、その女性は見たところヘルプマークや白杖を持っていたわけでもなく、その後の動きを見ても問題はなかったのであろう。一体どういう感性をしていたのだろうか。


また、服屋に来て話しかけられてクレームというのが少々理解できない。勤め先がハイブランドのような店ではなく、大衆向けの店であるため、一対一対応が絶対ではないが、明らかに困った風にされている客を相手に声をかけない選択肢はよろしくないだろう。これが声をかけないでほしい、という雰囲気を出していたなら話は別だったかもしれないが、それは余談である。



以上のことから何が言いたいかというと、服屋で声を全くかけられたくないのであるならば、服はすべて通販で済ませてくれ。Amazonや各ブランドのオンラインショップに頼れ。間違っても店に来てクレームをするんじゃない。服を売るどころかお前の服を燃やしてやろうか。



愚痴は以上でさておいて、次は自論である。


今日(書いているうちに2/18になってしまったが)述べる自論は、思考の押し付けについてである。何故、一番最初の投稿にこのことを選んだかというと、私が嫌う行為の中でもかなり上位に位置し、また意識的無意識的問わず、かなり被害を被ってきたからである。


思考の押し付けが嫌いな理由の最たるものは、自身の優位性を明らかにしようとしてくる者が多いからだ。合理的であるがための忠告などはまだ許せるが、「いや、俺はこうだったしお前は絶対違う。こうしろ、お前おかしいじゃん」という輩は何を考えているのだろうか。頭にはカニミソでもつまっているのだろうか。


もちろん、文言自体は多種多様なバリエーションがあるが、やはり多いのが"自分至上主義"のような考え方だろう。誇張した言い方のように聞こえ、そんなことはないだろう、と思う人が多いかもしれないが、この事例はそこら中に溢れている。例えば勉強方で考えてみよう。同じ勉強の仕方でも、成果が変わることがある。予備校や個別指導塾などでは、個々人に合わせた勉強方を売りにしているところもあるが、実際それは間違いでない。人間とは決して一様ではない。高度に抽象化されたものは、大勢に当てはまりやすかったりもするが、それは完璧な一致ではない。


だが、こういうと勘違いされることが多いが、考え方に意見されることが嫌いなのではない。考え方がずっと変わらないことなど、私は信じられないし、ならどうして変化するのかというと、体験や他者の意見が寄与する面が存在することは間違いないと考えるからだ。


嫌いなことは思考を押し付けられることだ。価値観に優劣をつけたって構わない。他者に迷惑をかけないのであれば、極論を言えばサイコパスでも構わない。ナマケモノのように1日16時間前後寝たって構わない。ただ、それを他人に強要するな。お前はお前で私は私、それでいいじゃないか。ナマケモノでさえできることを人間がどうしてできないんだ。干渉するなとは言っていない、ただその考えが至上であると思い込むな。猜疑の念を忘れるな。それができないのであれば、人間でいる必要があるのか?生まれ変わって木にでもなって新しい命を育む役に立ってくれ。



思ったよりも分量が伸びていたため、本日はここで筆を置こうと思う。明日はいいことがありますように。

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